結局、目的地までたどり着かなかった話。
いろんな「古典ゆかりの地」を訪問しているが、たまにはこんなこともあるのだろう。
相生市のホームページにて、相生市若狭野町雨内は和泉式部ゆかりの地であり、和泉式部の石碑があるという情報を得た。
このため事前にいろいろと情報収集してみたものの、『山のふもと』に石碑があるという以上の情報がなかった。
現地に行けばなんとかなるだろうと思い、とりあえず行ってみた。いつもは奇跡が起こったりして目的のものと突然出会ったりするのだが、今回だけは奇跡も起きなかった。
こんなのどかな村であった。

当初、石碑があると見込んでいた場所。見事に空振り。

直感で、ここにたどり着いたが、何もなかった。
何を作っているのだろう。

石碑があったので、飛び上がって喜んだが、農業関係の竣工記念碑であった。

村の様子

誰とも会わなかった。

「山の麓」というので、こんなのを覗いたりした。蜘蛛の巣が張っていて、これ以上進めない。

この中はどうなっているのかな。

これも。蜘蛛の巣はきらいだ。
結局、こんなかんじで探索は終了した。
相生市には責任を負ってもらうとして、相生市のホームページ「相生の伝説」(01)『和泉式部と小式部』の記事を転載させていただくことにした。
和泉守の橘道貞(たちばなのみちさだ)の妻である和泉式部は、上東門院に仕えていました。小式部が生まれた時は、橘道貞はこの世にはいませんでした。 そこで和泉式部は小式部を捨て子にしました。後のことを考え、小式部に絹に包ん守本尊(まもりほんぞん)を持たせ、絹の半分は自分が持ちました。
たまたま、京に上っていた播磨国若狭野村の長者五郎大夫は、捨て子を拾い上げました。
やがて、和泉式部の名声が高くなり、心に余裕が出ると、思い出されるのが小式部のことでした。ある時、上東門院(じょうとうもんいん)が播磨書写山に参詣する機会がありました。
参詣を終えた和泉式部は、小式部の行方をあちこち尋ねて、若狭野村の雨内にやってきました。その時、時雨にあったので、栗の木の下で、雨宿りをしている時に歌を詠みました。
苔筵(こけむしろ)敷島の道に行きくれて雨の内にし宿る木のかげ |
この歌を詠むと、たちまち栗の枝が傘の形に垂(た)れて、雨が体にかかるのを防いでくれました。そこで、人々はこの栗の木のことを「宿り木の栗」「雨宿りの栗」と言い伝えるようになりました。
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(リンクあり)
この和泉式部以外にもいろいろな伝説が紹介されているので、ぜひこのホームページをご覧ください。
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