すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


青墓(岐阜県大垣市)






青墓といえば、源朝長だろう。
能の演目として「朝長」があり、二番目物の修羅物で、とっても暗い。
「朝長」のオープニングで旅の僧が近江路から青墓の宿へやってくる場面


近江路や 瀬田の長橋うち渡り 瀬田の長橋うち渡り 
 なほ行く末は鑑山 老蘇の森をうち過ぎて 
 末に伊吹の山風の 不破の関路を過ぎ行き 
 青墓の宿に着きにけり 青墓の宿に着きにけり
謡曲「朝長」


平治の乱で、平家方に敗れた源義朝たちは東国を目指して美濃国の青墓の宿まで落ち延びてきた。
ところが源義朝の次男の朝長はすでに深い傷を負っており、父親の足手まといにならないために、青墓の宿で自害したという。

朝長の墓は、青墓にある円興寺にある。(注意:後述)
松尾芭蕉がこの地を訪れたときの発句

苔埋む蔦のうつつの念仏哉 松尾芭蕉



■円興寺の写真


真冬に行ったので、こんな写真になったが、春とか秋のハイシーズンに行けば素晴らしい光景が広がっているのだろう。



これも。


ちなみに、円興寺はもともとこの近くの山の頂上付近にあって、そこに朝長の墓があるのだが、織田信長の焼討ちで焼失したのち、現在の場所へ遷ってきたため、ここには朝長の墓はない。


この地図の、真ん中の左付近が現在の円興寺。
右手の山頂付近が元の円興寺で、朝長の墓がある。

当然のように、山には登らなかった。






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さて、この青墓に限らず、関ケ原から東側の宿場町には、遊女系の話が多すぎる。(野上の里や赤坂宿も含めて)
とは言え、この時代の遊女はそれなりに教養があり、和歌などのたしなみも十分なものがあったようだ。
次の歌は青墓の傀儡女(くぐつし/芸人)、名曳(なびき)が詠んだもので、詞花和歌集に載録されているもの。

はかなくも今朝の別れの惜しきかな いつかは人をながらえて見し 詞花和歌集






他には、後白河院に今様を教えた乙前が有名。
後白河院と師弟の契りを結び、御所内に部屋をもって、晩年に至るまで今様を伝授したという。
これら今様は後白河院によって「梁塵秘抄」にまとめられ、現在に伝わっている。
円興寺には梁塵秘抄の石碑があった。

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
梁塵秘抄

仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、
人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ
梁塵秘抄


円興寺内に「梁塵秘抄」碑



テキスト部分





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遊女ではなく、飯盛り女というか下女になってしまった照手姫の関連史跡も青墓にある。


史跡「照手姫水汲井戸」の碑



伝説上の人物である照手姫の井戸があったとは、にわかに信じがたいが、そんなこと言っていたらこのホームページが成り立たない。



いやはや





その他の青墓関連の歌


一夜見し 人の情にたちかえる 心もやとる 青墓の里 慈円


契りあればこの里人に青墓のはかなからずは又も来てみむ 一条兼良(藤川の記)







木曾路名所図会「青墓里」

(早稲田大学図書館)







地図は円興寺






「青墓」と「円興寺」を分けた方が良かったかなと思いました。






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