すさまじきもの 〜歌枕★探訪〜 |
越中国庁址(富山県高岡市)
たまたま、万葉歌人の大伴家持が国守となって越中国に赴任したので、国庁跡がこれほど有名になったのだろう。 現在に例えるなら、え〜と、 森田健作が千葉県知事になったとか、 横山ノックが大阪府知事になったとか、 青島幸男が東京都知事になったとか、 田中康夫が長野県知事になったとか、 東国原英夫が宮崎県知事になったとか、 そんなレベル感なのかな (あと石原都知事とか猪瀬都知事もかな) そんなことを考えながら、高岡市伏木になる越中国庁址を訪ねた。 【勝興寺】(写真は唐門) ![]() 伏木にある勝興寺の辺りが国庁跡だという。 勝興寺は、戦国時代の一向一揆の拠点となったことや、そのほか重要文化財を数多く擁するらしいが、あんまり興味がない。 ![]() とは言え、この本堂のスケールのデカさには驚いた。 ![]() 近づくと、こんなかんじ ![]() これも ![]() ただ、そこらかしこで改修工事をしていたので、どうも変な雰囲気であった。 ![]() 本堂の前 ![]() 現場事務所 ![]() 立入禁止 工事中のため、ほとんど見る場所がなかった。 そんななか、境内の片隅で「越中国庁址」碑を発見! ![]() ただ惜しむらくは、この石碑の裏に次の歌が刻んであったのを知らなかったこと。 |
あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千歳寿くとそ | 大伴家持(万葉集) | |
(あしひきの)山の木々の梢の寄生木を取って髪に挿したのは、 千年の寿命を祝う気持ちからだ。 (越中万葉をたどる/高岡市万葉歴史館) |
大伴家持は越中国守として5年間在任した。 家持は、朝廷の役人人生で全国各地に赴任しているが、その中で越中で詠んだ歌が質と量ともに他を圧倒している。万葉集には家持の歌が473首も収録されているが、そのうち越中時代の歌は223首を数えるという。 高岡市万葉歴史館の解説によると、 「歌人としては、生涯で最も意欲的でかつ充実した期間だったと考えられています。そして越中の5年間は政治的緊張関係からも離れていたためか、歌人としての家持の表現力が大きく飛躍した上に、歌風にも著しい変化が生まれ、歌人として新しい境地を開いたようです。」 ・・・とのこと。 次の歌など本当に素晴らしい |
春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ乙女 | 大伴家持(万葉集) |
1970年代のフォークソングの歌詞のような歌である。 大和の国で詠んだのだと思っていたが、実は越中で詠まれたとされ、驚きである。 大伴家持は国庁から徒歩5分程度のところに住んでいた。 現在の高岡市伏木気象資料館が建っている辺りが、昔の国守館の跡地という。 ![]() 元は気象観測所だった。 歴史的に貴重な建物らしい。 ![]() 敷地内に「越中國守館址」の石碑 この伏木の辺りには、万葉集や大伴家持関連のいろいろな史跡が整備されているようだ。時間がなかったので、今回は伏木気象資料館と勝興寺だけを訪問した。(高岡市万葉歴史館にも行けず) いつか再訪することがあれば、ゆっくり時間をかけて回りたい。 そんな中、勝興寺の前で、大伴家持像を発見 ![]() 傍らに歌碑があった |
しなざかる 越に五箇年(いつとせ) 住み住みて 立ち分れまく 惜しき宵かな | 大伴家持(万葉集) | |
(しなざかる)越の国に五年住み続けて、立ち別れるのが名残惜しい今夜であることよ (越中万葉をたどる/高岡市万葉歴史館) |
越中国守を離任する宴会で詠んだ歌。 5年間も住んだので、感慨深いものがあったのだろう。 |