すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


藤戸(岡山県倉敷市)





能「藤戸」のゆかりの地。

「春の湊の行く末や 藤戸の渡りなるらん

「秋津(しま)の 浪静かなる島廻り 松吹く風も長閑(のどか)にて げに春めける朝ぼらけ 船も道ある浦伝い 藤戸に早く付きにけり 藤戸に早く付きにけり




源平合戦、藤戸の戦いにおいて、源氏の武将の佐々木盛綱は先陣を切るために、若い漁師から浅瀬の在処(ありか)を聞き出し、口封じのために漁師を殺して海に沈めてしまった。

戦後、佐々木盛綱は先陣の功として備前国児島を賜り、領主として赴任。
すると一人の老女が現れて、なんの咎もない我が子を盛綱に殺されたと訴え出てきた。

最終的には、佐々木盛綱は罪を悔い、遺族を保護し、殺された漁師の追善供養を行なったことにより、漁師の霊は成仏するという内容。


執心男物の傑作で、結構有名な演目。
とにかく、息子を殺された老女が気の毒である。


この場合、佐々木盛綱にとって競争相手は敵の平家ではなく、味方の源氏側の各武将たちであって、一番乗りを目指す盛綱は浅瀬の位置が味方に知れてはならなかった。

当時、この辺りは海が広がる中に島々が点在していた。
平家は藤戸に陣取り、海峡を挟んで対陣していた源氏を挑発する。源氏は海戦が苦手で手が出せなかった。

そんな中、佐々木盛綱は騎馬で渡り始めた。海峡の幅は約500メートル。「深き処を泳がせて、浅き処にうちあがる」(平家物語)。不意を突かれた平家は敗走し、讃岐の屋島に逃げ帰ったという。


源頼朝は、「昔より、馬にて河を渡す兵多しといへども、馬にて海を渡す事、天竺震旦は知らず、我が朝には希代の(ためし)なり」と褒めたたえたと平家物語にある。
※天竺震旦・・・中国







【現地訪問】



往時は海が広がっていたが、今では干拓されて。陸地になっている。
藤戸の盛綱橋から北方向。



盛綱橋から南方向。
佐々木盛綱が海を渡ったのはこの辺りか。



なんと盛綱橋にはこんな佐々木盛綱の像があった。感動!



馬の半身まで海に浸かって渡っている様子。



盛綱橋と佐々木盛綱像と、倉敷川



現地の案内板より
佐々木盛綱が単騎で海を渡っている。



え〜と、これは殺された漁師を祀った経ヶ島。



祠があった。




経ヶ島を詠んだ句

経ヶ島 秋の下闇 深かりし 高浜年尾


現地の経ヶ島案内の石碑に刻印






これも現地案内板
海が完全に陸地化している。






さて藤戸を詠んだ歌は源平とは関係なく詠まれている。


わたつみものどけかりけり君が代は 藤戸の島に波のあらねば 善滋為政


花咲けば立つ白浪も紫に 見ゆる藤戸のわたりなりけれ 藤原家経(大嘗会和歌集)

藤は紫色だという歌









備中国名所考「藤戸潟、藤戸渡」

国文学研究資料館













名物は藤戸饅頭らしいです。






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