すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


深草(京都市伏見区)







ウズラ(鶉)

Wikipedia(ウズラ)



ウズラって鳥、名前は知ってるけど、見たことがない。興味もない。
ウズラの卵は食べたことがあるが、あんまり好きでもなく、ウズラなしでも一生問題なく生活していける。


そんなウズラであるが、山城国の歌枕の深草は、ウズラ(鶉)を詠み込んだ歌が多く詠まれている。

これは昔の深草はその名の通り草深い場所だったようで、そのため野生のウズラがたくさんいたことによる。

草深い場所は全国にあったし、ウズラもどこにでもいそうなものであるが、和歌の世界ではウズラといえば深草とされている。








伊勢物語、百二十三段。
昔男ありけり。深草に住んでる女に飽きてきたのか、こんな歌を詠んだ。


年を経て住みこし里を出でていなば いとど深草野とやなりなん 伊勢物語
長年一緒に暮らして来たこの深草の里を私が出て行ったならば、
今でさえその名の通り草深いのだからますます草深い野となって
しまうのでしょうか(角川ソフィア文庫)


女がそれに返して


野とならばとなりて鳴きをらむ 狩にだにやは君は来ざらむ 伊勢物語
ここがあなたのおっしゃるように草深い野となりましたら、私はその野に
鶉となって鳴いて、―泣いておりましょう。せめて狩にだけなりと、たとえ
それがかりそめのことでも、あなたがおいで下さらないことがありましょうか
(角川ソフィア文庫)


その女の歌に感心して、男は出ていくのをやめた。


いやはや、たしかに女の歌は健気である。こんな健気な女は21世紀の日本には最早いないだろう。







秋里籬島『拾遺 都名所図会』(1787年)巻四によれば、

深草里 
ひがしは谷口山を限り、西は竹田里、南は墨染、北は稲荷を限る。これ一箇の勝地にして、いにしへより高貴の山荘・寺院の大厦多し。
殊に鶉の名所にて、古人の秀詠多し。



■深草関連の歌


夕されば野辺の秋風身にしみて鳴くなり深草の里 藤原俊成(千載和歌集)


なく折にしなれば霧こめてあわれさびしき深草の里 西行


鳴く夕の空を名残りにて野となりにけり深草の里 藤原定家


深草の山の裾野のあさぢふに夕風さむく啼くなり 寂起法師


狩りにこしの床の荒れはてて冬ふかくさの野辺ぞ淋しき 後鳥羽院


秋を経てあはれも露もふかくさの 里とふものはなりけり 慈円(新古今和歌集)


思ひ入る身は深草の秋の露たのめし末や木枯しの風 藤原家隆




季節は秋、物寂しい景色を表現する中で、「鶉鳴く」を用いている。






■現在の深草の風景


深草を北から南へ流れる琵琶湖疎水



草深い風景はなくなっていた。



昭和の匂いのする住宅街であった。















え〜と、ウズラ鳴くの話は実に地味だった。
次は有名な「深草の少将の百夜通い」の話。


簡記すると、
・深草の四位少将は、山科に住む小野小町に恋をした
・小野小町からは、百夜通ってきたら契りを結ぶと言われた
・そして九十九夜まで通い、あと一夜というところで、死んでしまう
・謡曲「通小町」の題材となった伝承




なんとも切ない話である。
四位少将が住んでいたのは深草の欣浄寺。ここから小野小町が住んでいた随心院まで約5キロの行程。これを毎晩通ったらしい。
四位少将の無念はいかばかりか。
まあ、平安時代の恋愛とはこのような形だったのだろう。







■ 今回訪問したのは欣浄寺。

境内には、深草少将遺愛の井戸(墨染井)や小野小町姿見の池、少将と小町の供養塔があるという。
また少将の通い道もあるとのこと。




ところが・・・


これが玄関で、中に入っていくと



こんな感じで一般的な寺とは雰囲気が違い、



こっちは入りにくく、



こっちもプライベートな入口っぽい。

もしかしたらこれが「少将の通い道」なのかなと思ったりした。



裏に回って塀越しに撮影。整備されているようだ。

結局、境内には入らなかった。







家に帰ってから改めてインターネットで確認すると、年中無休拝観できるようで、本堂の中の大仏参拝は要予約となっていた。




通ふ深草 百夜の情 小町恋しの 涙の水が 今も湧きます 欣浄寺 西條八十






都名所図会「深草欣浄寺 四位少将古跡」 (国際日本文化研究センター)

















いつか再訪できたらいいなと思っています







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