すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


浜名橋(静岡県湖西市)




今は汽水湖として豊富な栄養素から養殖などの水産業がさかんな浜名湖であるが、もともとは海と砂州で隔たれた淡水湖あった。
浜名湖の古名は遠津淡海(とおつあわうみ、遠江)といって、都に近い琵琶湖に比べて、「遠い淡水の海」という意味であった。
遠江(浜名湖)からは浜名川が砂州に沿って西流したのち外海に流れ出ていた。

862年、浜名川を渡す「浜名の橋」が架けられ、東海道の交通が整備される。
橋が架かっていた場所が「橋本」の地名となり、現在も残っている。
「浜名の橋」は、砂州の秀逸な景色とあいまって、遠江国の代表的な歌枕の地として都にも聞こえていたようだ。



こんなイメージ


白砂青松、湖上の霞、優美な浜名橋、これらが織りなす絶景が広がっていて、東海道を往来する旅人の心を慰めていたのだろう。




【東関紀行】
東関紀行の作者が浜名の橋を渡った時の記述。感動が伝わってくる。

橋本といふ所に行きつきぬれば、きゝわたりしかひありて、気色いと心すごし。南には潮海あり。漁舟波に浮ぶ。北には湖水あり。人家岸に列なれり。其の間に洲崎遠くさし出て、松きびしく生ひつゞき、嵐しきりにむせぶ。松の響、波の音いづれと聞きわきがたし。行く人心をいたましめ、とまるたぐひ夢をさまさずといふことなし。みづうみに渡せる濱名と名づく。ふるき名所也。朝立つ雲の名殘いづくよりも心細し。
 
行きとまる旅ねはいつもかはらねどわきて濱名の橋ぞすぎうき 東関紀行








「浜名の橋」を詠んだ歌を集めてみた

東路の浜名の橋を来てみれば昔恋しきわたりなりけり 後拾遺和歌集
なき渡る雲井の雁よしるべせよ浜名の橋の霧のまよひに 源通光(最勝四天王院障子絵色紙和歌)
潮みてるほどに行かふ旅人や浜名の橋と名付け初めけん 平兼盛 
春の来る道や浜名の橋ならむ今日も霞の立ち渡りつつ 能宣集
東路や浜名の橋の朝霧にをちこち人の声かはすなり 壬二集
澄みわたる光もきよし白妙の浜名の橋の秋の夜の月 藤原光俊勅撰和歌集)




ところが浜名の橋は破損や火事などで何度も修復を繰り返しているようだ。このため、東海道往来のタイミングによっては、橋が架かっていないようなことがあり、その場合は船で渡してもらっていた。



【更級日記】
藤原孝標女は少女の頃に東国から都へ上った際の浜名の橋について、「更級日記」に次のように記している。

そのわたりしてはまなのはしについたり。はまなのはしくだりし時はくろ木をわたしたりし、このたびは、あとだに見えねば、舟にてわたる。いり江にわたりしはし也。とのうみはいといみじくあしく浪たかくて、いり江のいたづらなるすどもにこと物もなく、松原のしげれるなかより、浪のよせかへるも、いろいろのたまのやうに見え、まことに松のすゑよりなみはこゆるやうに見えて、いみじくおもしろし。

えーと、幼い頃に東国に下った際は、黒い木で造った橋を渡ったが、このたびは跡形も見えなくなっているので船で渡ったとある。






■焼けた橋を見て詠んだ歌

水の上の浜名の橋も焼けにけりうち消つ浪や寄りこざりけむ 重之集





■橋が流されて橋柱だけが残ったのを見て詠んだ歌

今はみな柱さへくちはててはまなばかりを聞きわたるかな 堀川百首

浜名と「名」を掛けている。
浜名の橋はなくなったが、名だけはよく聞く。
これは長柄橋によく似たイメージになっている。











そんな風光明媚な景勝地を、1498年に地震津波が襲った。砂州が破壊され、浜名湖周辺の土地が沈下した結果、浜名湖と海がつながってしまった。この時から浜名湖は汽水湖となって今に至っている。


こんなかんじ

津波で湖と海がつながった場所を「今切」と呼ぶ。


この結果、「浜名の橋」はなくなり、「浜名川」はそれまでと逆に、西から東へ流れるようになった。






今は無き「浜名の橋」と、逆流している「浜名川」を訪ねた。


旧東海道は街道沿いの松が整備されている。



浜名川の現在の姿。
手前から向こうへ流れている。



昔は浜名川が向こうから手前に流れていた。
今は逆になっている。



えーと、
多分この辺りを「浜名の橋」が右から左に架けられていたハズ。





「浜名川」を詠んだ歌

浜名川湊はるかに見わたせば松原めぐる海士のつり舟 中務卿(夫木和歌抄)











藤原為家と阿仏尼夫妻も別々の機会ながら、浜名の橋を渡ったようで、旧東海道沿いに二人の歌の歌碑があった。

風わたる浜名の橋の夕しおほにさされてのぼるあまの釣舟   前大納言為家
わがためや浪もたかしの浜ならん袖の湊の 浪はやすまで 阿仏尼


新居町浜名の旧東海道沿いに歌碑

風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟   前大納言為家
わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで   阿佛尼
 藤原為家(1198〜1275)
 鎌倉中期の歌人で定家の二男、初め朝廷に仕え、父の没後家系と学統を継いだ。
 承久の乱後、「千首和歌」で歌人として認められ、「続後撰和歌集」 「続古今和歌集」の勅撰集を始め、多くの私家集を編んだ。歌風は温和、平淡。この歌は「続古今和歌集」巻第十九に収められている。
 阿佛尼( ? 〜1283)
 朝廷に仕えた後、藤原為家の継室となり、夫の没後出家し、鎌倉下向の折、「十六夜日記」をなした。この歌は同日記にあり、当時のこの辺りを豊かな感性でとらえている。
 よって為家・阿佛尼の比翼の歌碑とした。
新居町教育委員会











なんと、戦後に浜名の橋が復活?
1976年、今切の場所に浜名バイパスとして「浜名大橋」が建設された。





これは素晴らしい!!!











「地形の変化」と「古典の歌枕」の組合せ、
こんな素晴らしい場所はありません。





copyright(C)2012 すさまじきもの 〜「歌枕」ゆかりの地☆探訪〜 all rights reserved.