すさまじきもの 〜歌枕★探訪〜 |
早川は芦ノ湖を水源とする二級河川で、小田原で相模湾に注ぐ。 水源は芦ノ湖であるが、実際のところ、江戸時代に芦ノ湖からトンネルが掘られて静岡側に排水されており、増水や渇水期以外は早川には流れない。静岡側では広く灌漑用水として利用されてきた。 芦ノ湖の水面標高は723メートル。その高さから河川距離約20キロメートルで海に流れ込むため、河床勾配は急峻である。 しかも中世では芦ノ湖からの流れ込みもあったことから水量は現在よりはるかに多く、まさに激流だったのだろう。 鎌倉時代、十六夜日記の作者の阿仏尼は急峻な箱根山を越えて早川沿いに(旧)東海道を下ってきた。 いとさかしき山を下る。 人の足もとどまりがたし。湯坂というなる。かろうじて越えはてたれど、ふもとに早川といふ川あり。まことに早し。 木の多く流るるを、いかにと問へば、海人の 藻塩木を、浦へいださんとて流すなりといふ。 |
あづま路の湯坂をこえて見わたせば塩木流るゝ早川の水 | 阿仏尼(十六夜日記) |
国土交通省関東地方整備局のホームページによると、十六夜日記の頃の東海道の箱根越えは、三島から直接箱根山を登り、芦ノ湖を経て箱根権現を通り、湯本へ下るルートで、「湯坂道」と呼ばれていた。湯本からは早川に沿って小田原方面へ続いている。 ■ 現在の早川 ![]() 東海道を歩いた時に、三枚橋から早川を撮影(上流方向) 煙が出ていたので川床から温泉が湧いているのかなと思ったが、消防の消火訓練のようだった ![]() これも 冬だったので水量も少なく、流れも速くなかった ![]() 下流方面 明治10年、徳川家茂の未亡人の和宮は脚気を患い、療養先の箱根塔ノ沢で31歳の短い生涯を閉じた。 3年後、天璋院篤姫は和宮終焉の地を訪れて次の歌を詠んだ |
君が |
天璋院篤姫 |
目の前を流れる早川の流れの速さのように、貴女は早く死んでしまった、という内容。 |