すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


平塚の里(神奈川県平塚市)






哀れてふたが世のしるし朽ちはててかたみもみえぬ平塚の里 太田道灌(平安紀行)



文明十二年(1480)六月、太田道灌は、東海道を京都に上る道すがら、
平塚の地で、この地に隠遁していて没した三浦遠江入道定可を思い起し、里人にその遺跡、墓所などを尋ねたところ、誰ひとり知る者がなかった。
(参考:平塚市観光協会)











私の住む関西から見ると、平塚って地味で印象薄く、ベルマーレ平塚ぐらいしか思い浮かばないが、神奈川県下では、横浜、川崎、横須賀に次いで市制化し、大戦末期には平塚大空襲がなされるほど発展していて、現在でも県西部の中核的な都市である。


中世には東海道の宿場町が置かれて、それなりに栄えていたようだ。







【現地訪問】


東海道ウォーキングの際、小田原宿から平塚宿まで歩いた

平塚宿京方見附跡にあった石碑
「従是東 東海道平塚宿」




今まで見た宿場町の中で一番整備されていないような気がする
道路も中途半端に拡幅されて、往時の面影はほぼ無い
平塚駅からも遠い



ここが本陣跡、今は銀行の支店になっている
神奈川支店の平塚支店とのこと、地味な建物だが、駅前に移転したらいいのに



本陣の案内板を転載
平塚宿本陣旧蹟碑
海道宿駅の高級旅館で、徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といい、これに次ぐものを脇本陣と呼んだ
東海道平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛と称し、現在の平塚ニ一〇四番地神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた、総槻造、間口約三十米、奥行約六十八米、東に寄って門と玄関があり、天皇や将軍・大名などの御座所は上段の間であったという
記録によると、徳川十四代将軍家茂は文久三年二月、元治二年五月の二回ここに休憩している、また明治元年十月と同二年三月の両度、明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに小休された
このたび、平塚支店改築にあたり、旧跡碑を建てて永く記念とする
 昭和四十七年の秋
 神奈川相互銀行取締役社長 半田剛撰




本陣の周りの様子



脇本陣の石碑があった
とにかく寂しい通りであった
車も人も少なかった



こちらはJR平塚駅前
栄えていた













浮世絵 東海道五十三次 「平塚」

Wikipedia


平塚宿を描いた浮世絵のモチーフは高麗山




現在の高麗山













小田原宿から20キロを歩いてたどり着いたので、
疲れてあまり覚えてません





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