「奥の細道」関連
通りすがりに建物の写真を撮っただけなので、このページの製作にそれほど思い入れもないのだが、地元の山形県最上町役場のホームページにベストな案内文があったので借用する。
元禄二年(1689年)俳人芭蕉は門人の曾良をともなって仙台領尿前の関を越え、出羽の国へと旅路を急ぎました。しかし
「大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す」
と「おくの細道」に綴っているとおり、大雨のためしかたなく、二泊三日、この家に滞在したといわれています。
最上町は以前は小国と言う地名で山形県内では随一の馬産地でした。小国産の牡馬は小国駒と呼ばれて江戸や越前地方へも移出されました。
人馬が一つの家で寝食を共にする様子を詠んだ芭蕉の句の背景には、小国が馬産地であり馬を大切に扱う生活環境があったようです。
(最上町役場) |
芭蕉の句の「尿する」については昔からどのように訓むのかの議論がある。「バリする」では卑俗な発音であるし、「シトする」はなんとも上品な響きとなる。そもそも「尿する」などの下品な言葉で句作したのが問題なのだが、人と馬が同じ屋根の下で寝る「封人の家」での宿泊で、芭蕉たちはさぞかし凄まじい体験をしたのだろう。
まあ、「尿する」という語句を使ったのは、「封人の家」に至る前に「尿前の関」という出羽街道の関所を越えてきたイメージが残っていたのだと思う。芭蕉と曽良は、尿前の関で厳しい取り調べを受けたようで、なんとか関を越えたことが「おくのほそ道」に記述されている。
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