すさまじきもの 〜歌枕★探訪〜 |
寂光院(京都市左京区)
都名所図会「大原寂光院」
「国際日本文化研究センター」
思ひきや深山の奥にすまひして雲井の月をよそに見んとは | 建礼門院(平家物語) |
平家物語ゆかりの地、寂光院。 というか、もしも建礼門院が寂光院で隠棲しなかったら、もしも後白河法皇が寂光院に建礼門院を訪ねなかったら、いったい寂光院はどんな姿で現在に残っていたのだろうか。 大原の地の利があるので、四季とりどりの花の寺として、京都通の“お勧めスポット”にはなっていただろう。 それとも、山崎豊子の「不毛地帯」の作中にたびたび登場するので、山崎豊子フリークの聖地になっていたかもしれない。 もともと寂光院は「甍破れては霧不断の香を焚き、扉落ちては月常住の燈火を挑ぐ」(平家物語)と描写されていたように、当時すでに屋根も扉も朽ち果てていたので、とうの昔に廃寺となっていたかも。 そんなことを考えながら、とりあえず訪問前に平家物語「灌頂の巻」を読み、図書館から「建礼門院という悲劇」という本を借りて読み、そして謡曲「大原御幸」のテキストを通読して、自分自身の中でボルテージを高めていった。 |
【寂光院】 ・・・ 京都市左京区大原草生町676 ![]() 訪問したのは4月下旬のこと。遅咲きの桜がきれいであった。 建礼門院の大原西陵の入り口。寂光院の東隣。 ![]() これは寂光院の山門に続く石段 ![]() 寂光院の山門 ![]() 本堂 実は2000年に火災で焼失している。2005年に再建。 境内には平家物語ゆかりのエピソード感にあふれた史跡が整備されている。 ![]() 建礼門院の庵跡。 後白河法皇が「女院のご庵室を叡覧あるに、軒には 「不毛地帯」(山崎豊子)では主人公の壱岐の恋人の千里が知人を案内している。「老杉がまわりに茂った平地に『御庵室遺跡』と記された碑が立っている。建礼門院が住った庵は今は失く、小石を積んだ苔むした石垣のみが、僅かに昔日の面影を伝えている。」 ![]() 諸行無常の鐘楼 ![]() え〜と、これは「姫小松」の切り株。 平家物語で「中島の松にかゝれる藤波の、裏紫に咲ける色」と記された松であったが、2000年の火事の影響で枯死、残念。 ![]() そしてこれは「 「池の浮草、浪に 後白河法皇が訪れたとき、女院は山へ行っていて留守であった。後白河法皇はこの池の様子を見て次の歌を詠んだ。 |
池水に 汀の桜 散りしきて 浪の花こそ 盛りなりけれ | 後白河法皇 |
え〜と、個人的に今まで桜の名所に桜の時期に訪れたことはなく、紅葉の名所に紅葉シーズンに訪ねたことはない。観光客で満員の場所に行くのは苦手で、とにかく避けてきた。 今回も外国人を含めた観光客が桜を鑑賞する時期をはずして訪れたつもりであったが、昨今の異常気象なのか、4月下旬になっても桜が咲いていた。 寂光院の「汀の池」に咲く桜があった。これこそ後白河法皇の歌に詠まれた汀の桜なのか。 |
いや〜、素晴らしい写真である。![]() まさに、「汀の池」と「汀の桜」のコラボの写真! ・・・というのは間違いらしい。 案内してくれた寺の担当者によると、池の上に咲く桜は「汀の桜」ではなく、一般的な桜とのこと。 ![]() これが「汀の桜」 何代目かの若い「汀の桜」は池畔にあるものの、それほど花を付けておらず、目立たない存在であった。 後白河法皇は寂光院に着いたが、誰もいなかったため、「人やある、人やある」と呼んだところ、尼僧が一人現れた。現れたのは女院に仕える女房の阿波内侍で、つぎはぎだらけの姿で老い衰えたる様子であったと。 ![]() なんと、薪や柴を頭の上に載せて京の都に行商に行っていた大原女(おはらめ)のモデルは阿波内侍とのこと。 後白河上皇と阿波内侍が問答しているうちに、裏山の翆黛山に花を摘みに行っていた女院が帰ってきた。 ![]() これが翆黛山。 後白河法皇と対面した女院は、数奇な運命を辿ってきた身の上を語り、安徳天皇の入水と平家一門の最期を涙ながらに語る。 平家物語のクライマックスである。 さて、こんなエピソード満載の寂光院と建礼門院に関連する歌の紹介 |
埋もるゝ身は露霜のふる塚も春だにはなのゆきにかくれむ | 柳原安子 |
露の上の月のみ独りすみぬらむ尾花が末の秋の夜なよな | 中山綱子 |
名にたてるみぎわの桜 契りあらば再び花の春を待ち見ん | 梨木祐為 |
ほととぎす治承寿永の御国母三十にして経よます寺 | 与謝野晶子 |
春ゆふべそぼふる雨の大原や 花に狐の睡る寂光院 | 与謝野晶子 |