すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


亀嵩(かめだけ)(島根県奥出雲町)







え〜と、今パソコンに向かっているのは2023年の7月。

島根県の亀嵩へ訪問したのは2020年の8月で、3年前のこと。

なかなかホームページの作成をする気になれず3年間放置してきた。

いろいろ書きたいことがいっぱいあって、どうやって作っていくか考えが整理できなかった。

突然の和泉式部の登場で混乱したというのもある。





実は、亀嵩訪問に先立って、松本清張の「砂の器」を読んで自分の中のボルテージを上げていったのだが、3年間の間にストーリーも忘れてきた。

何のために刑事は奥出雲に行ったのかな?

とりあえずWikipediaの「砂の器」をさらっと一読してからこのページを作り始めた。











【現地訪問】


JR木次線、出雲三成駅、最初に刑事が降りたったのがこの駅。今はきれいな建物になっていた



出雲三成駅、もともと相対式の2面2線の駅だったが、今は1線しか使われていない



三成警察署、刑事が訪ねて行った








三成から東へ5キロ進んだところにJR亀嵩駅。ここは松本清張ファンの聖地である。現在は蕎麦屋が併設されていた。名物らしい。



駅の待合室



プラットホーム



ところがここから妙なことが起こった。
亀嵩の駅前に「謎、不思議 ここにあり 和泉式部の墓」という看板があった。



矢印の通りに行くと、線路を渡ったところにも看板があった。
「平安の歌人、和泉式部終えんの地 すぐそこ」と書いている。



和泉式部が奥出雲で死んでいて墓があるなんて聞いたことがないと思いながら歩いて行くと、なんか史跡っぽいのが整備されていた。



石塔と墓があった



いやはやよく分らないのだが、奥出雲町のホームページに案内文があったので転載する

 亀嵩駅の裏手に「和泉式部碑」と書かれ、側面には文化13年(1817)と刻まれた墓石がひっそりと佇んでいます。和泉式部は平安時代の歌人として、紫式部や小野小町と並び称されるほどの有名な歌人です。それがなぜここ亀嵩の地に墓があるのか不思議ですが、このような説話や墓所は全国に20ヶ所以上あるようです。これは、中世にかけて京都の誓願寺派の聖(尼)が和泉式部の伝説を語り歩いたからと言う説がありますが、本当のところは定かではありません。しかしながら、大内原では「高柴の前の簾をかきあげて、大内ながむれば、琴の音ぞする」と言う和泉式部が詠んだという詩が伝えられ、集落内の泉というところに住んでいたところなど、各所に伝説を色濃く残しています。このような伝説が伝えられたのも、地域住民の皆さんの和泉式部を思う心が宿らせ、式部講というかたちで文化を育んできたものと考えられます。
奥出雲町役場

・・・とのこと



和泉式部が詠んだと伝わる歌


高柴の まえの簾をかきあげて 大内ながむれば 琴の音ぞする 和泉式部


現地に歌碑




突然の和泉式部の登場でいささか動揺したが、もとの「砂の器」巡りに戻った。







亀嵩駅からさらに西へ進むと亀嵩駐在所があった。
被害者の巡査はここで勤務していた。







さらに東へ進むと湯野神社がある。



社頭に砂の器の記念碑があった。「小説 砂の器 舞台の地」とある。



「砂の器記念碑叙事」
 昭和三十五年読売新聞に連載された松本清張先生作小説「砂の器」は,不朽の名作として全国に脚光を浴びた。この序章に奥出雲の僻地亀嵩が登場する。被害者が語った一言の東北訛りを手かがりに,一刑事の探し当てた執念の地である。この村の鄙びた風景と素朴さとを舞台に,ここに現れた放浪の父子,これらを救うた駐在の巡査とのめぐりあわせ,そこからくりひろげられる栄光と挫折,揺れ動く宿命の織りなす壮大な大作が生まれた。
 後年,脚本橋本忍,監督野村芳太郎氏らにより映画化され,小説舞台の地は広く国の内外に知られるとところとなった。
 この地に著者による碑文の揮毫,原稿原文を名石に刻み,地域篤志家の賛助寄付により「砂の器」記念碑を建立し,ここに松本清張先生はじめ,映画製作関係名士等多数を迎え,除幕の盛典を行う。ここに吾ら郷党の喜びと感謝の序文を記すものである。
昭和五十八年十月二十三日
亀嵩観光文化協会、砂の器記念碑建立委員会


早春に東北訛りの奥出雲 松本清張













知人に、「砂の器」とあだ名で呼ばれている男性がいます





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