| すさまじきもの ~歌枕★探訪~ |
| 菅茶山(1748-1827)は西国街道の宿場である神辺宿で私塾「 1806年、福山藩医伊沢蘭軒が長崎への遊学の途中に黄葉夕陽村舎を訪れた際の日記が残っている。 塾の様子を余すところなく伝えており、私もとても気に入っている文章である。 茶山の この文章、フリガナも含めてタイプ打ちが大変だった。 管茶山はまた漢詩の作者として「当代随一」とされ、詩集『黄葉夕陽村舎詩』がある。 その中から神辺駅を詠んだ一首 |
| 「神辺駅」 黄葉山前古郡城 空濠荒駅半榛荊 一区蔬圃羽柴館 数戸村烟毛利営 |
菅茶山 |
| 大意は、 「黄葉山前は古の城下町、濠の水は涸れ、宿場はすたれて雑木が茂っている。ひとくぎりの野菜畑はかつての羽柴秀吉の泊まった館の跡、また五、六軒の煙のたっているあたりは毛利軍の陣営跡だと。」(菅茶山記念館) ”国破れて山河あり”チックな描写であるが、もともと備後福山藩の成立までは神辺付近にお城があったもの。 管茶山と頼山陽の邂逅譚も面白い。 管茶山と頼山陽の父親の頼春水とは親交があったことから、頼山陽が塾頭に就任した。ところが頼山陽は田舎塾の塾頭では満足できず、京都進出の夢を絶つことができず、突然出奔した。 そして塾の襖に書き付けたのは、 |
| 水は凡 山は俗 先生は頑 弟子は愚 | 頼山陽 |
| こんなエピソードがあったが、二人はその後も末永く師弟の情誼を結んだ。 現在では、岩波文庫の新日本古典文学大系に菅茶山と頼山陽の詩集が一緒になって収録されている。 |

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管茶山は地元の神辺宿で塾を開いたが、これは当時の神辺宿周辺の人々が酒ばかり飲んで勉強しなかったことを嘆いたことによるらしい。 管茶山の嘆きの川柳 |
| かんなべに 酒のむ人は 多けれど 本読む人は ちろりともなし | 菅茶山 |
| 「神辺」に「燗鍋」を掛けている。 あと、これも江戸時代の狂歌師の大田南畝が神辺宿で詠んでいる。 |
| こゝろざし煮花の茶には出たれど名におふ酒のかんなべはなし | 大田南畝 |
| これも酒と燗を掛けている。 【現地訪問】 したものの ・ ・ ・ ![]() 北側の川の方から訪れたところ、工事中なのか、建物は鉄筋に囲まれていた ![]() これも北側から撮影 手前の壊れそうな建物の向こうに白い建物がある ![]() 横から見た様子 ![]() 北側を流れる川 結局、近くに車の駐車場がなく、遠いところまで駐めにいく気力も無く、この写真だけ撮って退散した |