すさまじきもの ~歌枕探訪~


川中島(長野県長野市)







鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく) 夜河を(わた)
(あかつき)に見る千兵の 大牙(たいが)(よう)するを
遺恨(いこん)なり十年 一剣を磨き
流星光底(りゅうせいこうてい) 長蛇(ちょうだ)(いっ)
頼山陽
(上杉謙信の軍は)鞭の音もたてないように静かに、夜に乗じて川を渡った。明け方、武田信玄方は、
上杉の数千の大軍が大将の旗を立てて、突然面前に現れたのを見て、大いに驚いた。 しかし、
まことに残念なことには、この十数年来、一剣を磨きに磨いてきたのに、打ち下ろす刃(やいば)が
キラッと光る一瞬のうちに、あの憎い信玄を打ちもらしてしまった。
公益社団法人 関西吟詩文化協会 
 


雨宮の渡し公園に歌碑





跡しのぶ 川中島の朝あらし いぶきのさ霧 おもかげに見ゆ 月廼亀麿
月影の入りにし後も ほととぎす ひとこえ残す 小島田の里 月廼亀守




 川中島古戦場跡公園に歌碑
表に(父)月廼亀麿、裏に(子)月廼亀守の歌を印刻






川中島の戦い、
宿命のライバルである甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、北信濃の領有をめぐり、12年、五回にわたって対戦した合戦の総称だが、一般的には最大の激戦があった第四次の合戦を指す。


第四次の合戦、
千曲川の氾濫原の八幡原に本陣を置いた武田信玄軍と、千曲川右岸の妻女山に布陣した上杉謙信が、互いに睨み合いを続けていた。ある夜、信玄の別働隊が妻女山に向かったが、同じ夜、謙信軍は音も立てずに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を渡った。朝、霧が晴れてみると、信玄の本隊の前に謙信軍が現れ、波状攻撃を仕掛けた。


一騎打ち、
この戦いで、謙信は刀で信玄に襲いかかり、信玄は軍配で謙信の刀を受け止めたという逸話がある。テレビドラマや小説で最高に盛り上がる場面である。本当に一騎打ちはあったのかな。


そして、
謙信軍のいない妻女山に攻め込んだ信玄の別働隊は、八幡原に急行し、謙信軍を挟撃する形となった。形勢が不利となった謙信軍は兵を退き上げた。


え~と、
今回の信州旅行を前に新田次郎の「武田信玄」、井上靖の「風林火山」を読んだ。どちらも後に大河ドラマでテレビドラマ化されている。次は海音寺潮五郎の「天と地と」を読もうかな。







■現地訪問


川中島古戦場史跡公園 ・・・ 長野市小島田町


現地にあった合戦図、右下が北。
小説を読んだところなので、とても具体的に理解することができた。



信玄と謙信、一騎打ち像
右が刀を振り上げている謙信、左が軍配で受け止めようとする信玄。
太陽の光線が強すぎて、イマイチな写真になった。



「三太刀七太刀之跡」碑
謙信は三度斬りつけ、信玄の軍配には七つの傷が残ったということで、ここは信玄謙信の一騎打ちが行われた、まさにその現場。



川中島古戦場八幡社



首塚
戦後、敵も味方も区別なく戦死者の遺体を手厚く葬った。








次に向かったのは、妻女山展望 ・・・ 長野市松代町2881



川中島古戦場公園から車で15分くらい。
信玄の別働隊が妻女山の謙信をに襲撃をかけたが、もぬけの殻。謙信は音も立てずに山を下りていた。その妻女山に展望台が設けられている。



眼下に古戦場跡が広がる。



iPhoneの普通モードで撮影



これは超広角モードで撮影

信玄軍2万人、謙信軍1万2千人の兵士がここで戦ったのだが、もしここのような山の上からその様子を見ていたら、さぞかし壮観な眺めだったろう。






次、雨宮の渡し公園 ・・・ 千曲市雨宮395−12


謙信が、鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)として夜河(よるかわ)を渡ったのは雨宮の渡し。現在では史跡公園として整備されている。また頼山陽の立派な詩碑もあった。



現地案内板より















「善光寺道名所図絵」から (早稲田大学図書館)

対陣図、南北が逆
上の川が千曲川、下が犀川、その間の氾濫原が川中島



信玄の必殺「車懸りの陣」!



信玄と謙信の一騎打ちの図



乱軍の光景







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信玄と謙信の一騎打ちの図















時間をかけてゆっくりと関連史跡を回りたいです。






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