すさまじきもの 〜歌枕★探訪〜 |
城の山は「きのやま」と読み、現在の「基山(きやま)」。 白村江の戦いで敗れた日本は大宰府を中心として守りを固めた。 天智天皇は各地に山城を築き、唐と新羅の連合軍の襲来に備えた。 大宰府の南8キロの基山にも朝鮮式に山城を築いた。 標高415メートル、脊振山地の東端に位置し、福岡県と佐賀県の県境となっている山で、筑紫野の平野からは秀麗な山容がよく見える。 この辺りを車で走り回っていた時は、いつも視野の片隅に「城の山」が映っていて、まあ、いつでも写真を撮れると思っていたが、結局写真として残った「城の山」は次の写真だけ。 いざ写真を撮ろうとしたら雨が降り出し見えなくなった。 この写真は一瞬雨が止んで山の稜線が薄く確認できるようになった時のもの。 「城の山」を詠んだ歌 |
今よりは 城の山道は 寂しけむ 我が通はむと 思ひしものを | 万葉集 |
「これからは大宰府へ通う、城の山の東麓を通る街道も寂しくなってしまう」と、太宰府から都へ帰った大伴旅人に対し筑後守の葛井大成が送った歌。 大宰府から筑後平野へ抜ける道は「城の山道」と呼ばれていたようだ。 次の歌は、元号の「令和」の由来となった大伴旅人の邸宅で開かれた梅花の宴で詠まれたもの。 大伴旅人が詠んだ、「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」に対し、 |
梅の花 散らくはいづく しかすがに この城の山に 雪は降りつつ | 万葉集 |
空から雪のように梅の花が散っている、という歌に対し、城の山で雪のように梅の花が降り続いています、と返している。 |