すさまじきもの 〜歌枕★探訪〜 |
象潟(秋田県にかほ市)
日本三景の一つ、松島。その松島と並び称される景勝地であった象潟は、松尾芭蕉の奥の細道にも「松島は笑ふが如く、象潟は ・・・と、ここまで書いてその後が続かない。 いろいろ考えたり、資料を見たりするのだが、どうも文章が進まない。 とりあえず地元のにかほ市のホームページの案内文を転載する。
歴史をさかのぼると、 紀元前466年に鳥海山が噴火し山体崩壊が起こり、流れ山が日本海まで流れ込み、多くの小島ができた。 その後に砂洲が発達し、内側に潟湖ができあがり、潟湖に小島が浮かぶような地形となった。 松の木が生えた多くの小島が内海に広がる風景は、「九十九島、八十八潟」と呼ばれ、風流の勝地となった。 平安時代中期に能因法師が象潟にやってきた。 |
世の中はかくても経けり象潟の海士の苫屋をわが宿にして | 能因法師 |
能因法師はこの有名な歌を詠み、そしてなんと、象潟の景色が気に入ったのかこの地に3年間も住んだそうだ。 鎌倉時代初期に、西行が象潟を訪れた。そして次の歌。 |
きさかたの桜は浪にうづもれて花の上こぐあまのつり舟 | 西行 |
象潟の水面に散り広がる桜の花びらの上で舟を漕ぐというもの。 そして江戸時代、能因法師と西行に憧れてやってきたのが松尾芭蕉。 舟で島巡りに出掛け、真っ先に着いたのが能因法師が3年間隠棲していた能因島。その次は西行ゆかりの桜の老木を見学。 芭蕉は象潟の風景を、憂いに沈んだ美女の面影に似ているとし、 |
象潟や 雨に西施が ねぶの花 | 松尾芭蕉 |
と詠んだ。 その頃の象潟の様子を描いた絵図が、JR象潟駅の案内板にあった。 |
孤峰として悠然と裾野を広げる鳥海山を背景として、九十九島・八十八潟が広がる。江戸時代の紀行家である菅江真澄は「春来れば白桜の花影をうるおし、青松翠陰を落とす。佳興殊に甚だし。」「其の好景、東溟の松島と相い表裏す」(出羽日記)と記している。 う〜ん、たしかに松島に匹敵する絶景である。 ところが1804年に象潟地震が起こり、象潟は隆起して陸地化してしまった。水田が広がる中にかつての小島が点在する現在の光景になった。 明治時代に象潟を訪れた正岡子規は、「象潟は昔の姿にあらず、塩越の松はいかがしたりけん。」(はて知らずの記)と嘆き悲しんだ。 2018年夏、私は能因法師、西行、松尾芭蕉、正岡子規らの足跡を訪ねる旅に出た。目的地は象潟。仙台空港からレンタカーで向かった。 その日は大雨警報が発令され、どしゃ降りであった。 |
着いたのは象潟にある干満(蚶満)寺(かんまんじ)。 駐車場から庭園の公園を巡った。 ![]() 芭蕉が来た時も初日は雨だったようだ。 ![]() いやはや雨が強すぎて、道が水に浸っている。 象潟地震で陸化する前の、入り江時代の象潟に戻ったような光景だ。 ![]() 西施像があった。中国の伝説の美女。越王勾践から呉王夫差にいわゆるハニートラップのように贈られ、その間に勾践は臥薪嘗胆したという話。 芭蕉の歌(再掲)、
![]() 芭蕉像の傍らに句碑 ![]() ねぶ。 現在では合歓(ねむ)の木。 夏前にピンク色で線のような扇のような南方系のような、文字では説明できないけど、本当にきれいな花が咲く。 ![]() 傍らに西施の絵図碑 ![]() 拡大図。西施が舟に乗っている。 ![]() そしてこれは芭蕉像。 ![]() 芭蕉像の横に ![]() 公園の外には水田が広がり、その中にかつての小島があった。 ![]() 鳥海山方面。全く見えなかった。 ![]() 干満寺の山門 ![]() 本堂 ![]() 境内には様々な史跡が保存されていた。 これは「舟つなぎの石」。昔はこの前に舟が着いたのだろう。 ![]() 「西行法師の歌桜」 西行の歌、『花の上漕ぐ〜』のゆかりの木。 ![]() 「親鸞聖人の腰掛け石」 干満寺と親鸞て、どう関係あるのかな? ![]() これは芭蕉の木。 (松尾)芭蕉つながりだろう。 ![]() 何の写真だったのか ![]() これも何だったか忘れた。 ![]() 「〜ねぶの花」の句碑もあった ![]() そしてこれは、六人分の句碑
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![]() これはJR象潟駅前にあった奥の細道の文学碑 文学碑の文章
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