すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


鴻臚館(京都市下京区)






「そのころ、 高麗人の参れる中に、かしこき相人ありけるを 聞こし召して、 宮の内に召さむことは、宇多の帝の御誡めあれば、いみじう忍びて、この御子を 鴻臚館に遣はしたり。 御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに、相人驚きて、あまたたび傾きあやしぶ。」(源氏物語/桐壷) 



鴻臚館といえば、源氏物語の桐壺の巻、父である桐壺帝が幼い光源氏を鴻臚館に滞在していた高麗人に人相占いさせている。
「帝位につく人相ですが、そうなると国が乱れます」との回答があり、帝は光源氏を臣下にして朝廷の補佐役にした、云々と。


実は、「源氏物語」は何度も何度もチャレンジしたものの、最長で「夕顔」(四帖)で止まっている。「空蝉」(三帖)で終わったこともある。
その分、一帖の「桐壺」は何回も読んでおり、「高麗人の観相」はよく知るエピソードである。



高麗人が滞在していたのは鴻臚館。
海外からの使節団を宿泊させて歓迎する施設で、今で言うと、御所にある京都迎賓館がそれに当たる。
鴻臚館は鎌倉時代には廃止されたが、江戸時代になって同じ場所で島原遊郭として栄えることになる。



和漢朗詠集に往時の鴻臚館を詠んだ詩文が収録されている。


鴻臚館に北客に餞するの序』(於鴻臚館餞北客序)
前途程遠し思いを雁山(かんざん)(ゆうべ)の雲に馳す
後会()遙かなり (えい)鴻臚の暁の涙にうるおす
江相公(和漢朗詠集)





そんな鴻臚館跡で、島原遊郭の跡地に行ってきた。







島原の東の門(大門)。
ここから島原へ入るときは愉快だったろう。



当時の建物が残る角屋。幕末に長州の久坂玄瑞が密議をした跡との石碑があった。



角屋の玄関



新選組の刀傷が残っているらしい。



角屋の風景



左が角屋。この道の突き当りに鴻臚館があったとのこと。



鴻臚館があった辺り



島原西門の跡



西門の隣に島原住吉神社
良縁の御利益があり「参拝者が夥しかった」という



東門(大門)、輪違屋(置屋)、角屋(揚屋)の三つが島原遊郭当時の面影を残すという。





まあ、それなりの京都観光地となっていた。




白梅や墨芳しき鴻臚館 与謝蕪村


「東鴻臚館址」碑の傍らに句碑





嶋原の 外も染るや 藍畠 服部嵐雪





住吉の 松の常盤に 春はなほ 色香あらそふ 神垣の梅 富士谷成章


島原住吉神社の前に歌碑





「島原八景のうち、西口菜花」
花の色は いひこそ知らね 咲きみちて 山寺遠く 匂ふ春風 富士谷成章


西門跡に歌碑
西門の前には菜の花が咲いていたようだ





「嶋原のでぐちのやなぎをみて」
なつかしき やなぎのまゆの 春風に なびくほかげや さとの夕ぐれ 太田垣蓮月


大門の前に歌碑
大門の前には今も柳が植えられていた。





宝暦のむかしの夢は見は見つれ 夜半の投節聴くよしもなし 吉井勇

これの意味は分からない















それなりに楽しめました






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