福井県の三方五湖のすぐ近くに「恋の松原」という歌枕がある。
「恋の松原」なんていう大仰な名前のわりにマイナーな存在。
しかも現在では松原はなく、近くを見回しても松原らしい風景はないので、名前だけが浮いてしまっている。
整備された史跡に松の木が一本植えられているだけ。
現在の状況(ストリートビュー) |
案内板から転記
恋の松原伝説
恋の松原のルーツを訪ねてみると、鎌倉時代初期にはすでに、藤原為家が次の歌を詠んでいます。
逢うことを
いくとかまたん 若狭路の
やまのくろつみ つみしらせはや
権大納言 民部卿 為家
『若狭郡県志』には、「恋の松原は上瀬神社の東北に在り」とあります。平安時代中期には、この辺り一帯は松林で、「恋の松原」または「古美こみの松原」と呼ばれていたようです。
さらに、『三方郡誌』には次のようにあります。
恋の松原気山に在り。宇波西神社の東北の地を言う。恋の松原は、「八雲御抄」並びに、「夫木抄」にも若狭とあり。里人は此処とし常に「こみの松原」と称す。伝えいう。往古一男一女あり。密かにここに会せんことを約す。女、先ず至りて待つ。時に大いに雪降り、男来らず、女、約を守りて去らず。
遂に、椎橋の下に凍死したりき。当時、この地松原なりき。故に恋の松原と称すと。後の人その墳を築き、また謡曲を作れり。
悲恋の女性の叫びが、今もなお聞こえるようです。
美浜町教育委員会 |
これを読むと、平安時代はこの辺りに松林が広がっていたようだ。
まあ、携帯電話もなかった時代なので、約束の時間に大雪になり、男は家を出ず、女は約束を守って出て行って雪の中で凍死したという現在では考えられないような悲運な話である。
こんな恋の松原を詠んだ歌 |
ほのかにも猶あふことを頼みてや こひの松原 しげりそめけむ |
祐子内親王家歌合 |
とはばやなたが世に誰をうらみ坂 つれなく残る恋の松原 |
道興准后 |
白雲と消にしあとか乙女子か恋の松原まつとせしまに |
伴信友(故郷百首) |
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現地の様子

恋の松原の史跡

南側から撮影、右奥は久々子湖

西から撮影、よく分からない
とにかく田んぼが広がっていた
ネーミングも良く、伝説も揃っているのに、知名度低いです
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