すさまじきもの ~歌枕探訪~


串橋(石川県小松市)






串の橋 二つの潟を つなげども 此処に相見て 我等は別る 与謝野晶子


小松市串町の串橋のたもとに歌碑


串橋は、石川県小松市の串町の小川に架かる橋。
昭和六年、与謝野晶子が北陸旅行の際に串橋までやってきて、短歌を詠んでいる。
ところが与謝野晶子が詠んだ詩情豊かな串橋の風景も、戦後の開発事業により様相が一変してしまったようだ。
その間の消息については、串橋のたもとにあった碑文に詳述されていた。少し長いが転記する。

 碑文
 串川は、柴山潟から今江潟へ流れる内川で全長一四五八米、巾約三九米、平均水深約三米であった。
海運盛んな明治初期までは、安宅港と大聖寺藩を結ぶ重要な航路で人や米、肥料等を積む帆かけ船が上り下りしていた。又、河道で他村や水田を舟で往来する農耕、生活の水路でもあった。更に淡水のこい、ふな、ぼら、うなぎ、しじみも豊かで川、潟漁は、農業と共に串村の生活を支えた。
 北陸街道と木曽街道を結ぶこの「渡し」には水、陸路の番所が置かれる。その後橋が架けられ藩政末の「江沼志稿」に「串大橋、板橋長サ二四間、巾三尺五寸串領に在」と記されている。何回か架替られ、昭和九年コンクリート橋となり長さ三九・三米、巾四・五米となる。昭和六十年三湖干拓事業により現況となる。
当時の大橋附近は雄大な清流で四ツ手網の好漁場で、橋の上からぼら等の通過を見て「それそれ」と声をかけ網をあげる。これが転化して「そりそり橋」として知られるようになる。夏の風物詩でもあった。
 与謝野晶子、寛が就主宰する短歌「明星派」の同人であり親友であった村松町の名医師麦谷良作(号を亜星)を尋ねて詠まれた歌に代表される詩情あふれる串川や大橋の詩歌は多い。
 往時の串川を偲び後世に伝へたく記念碑を建立する。


川の幅が39メートル、橋の長さは42メートル(24間)、ボラが橋の下を行き交い、帆掛け船が川を上り下りしていたという。


そんな串橋の現在の姿


10メートルもない橋になっていた。



ただし橋の名前は「串大橋」。
写真の右手の緑地帯も川だったのだろう。それなら川幅が39メートルあったというのも頷ける。



いまの川幅は5メートルくらい。
清流が流れて、好漁場であったとは想像できない。
そして橋のどちらの方向にも潟湖を感じさせるようなモノはなかった。



橋のたもとに歌碑と碑文が建立され史跡として整備されている。










石川県小松市 串町ヌ−15−1に歌碑






日本の原風景として、潟湖や海跡湖が大好きです。






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