すさまじきもの 〜歌枕★探訪〜 |
松風村雨堂(神戸市須磨区)
「松風村雨堂」とは、和菓子店が二軒並んだような名前だが、これは松風と村雨という二人の女性の名前に由来する。 平安時代、在原行平が天皇の怒りを買い、一時期、須磨に蟄居した。 この際に行平の身の回りの世話をしたのが、村長(むらおさ)の二人の娘であった。行平は二人をそれぞれ松風と村雨と呼び、愛するようになった。 数年後、行平は天皇に許されて都へ帰るのだが、松風と村雨は行平を慕うために居跡に庵を結んだ。これが「松風村雨堂」として現在に伝えられている。 【松風村雨堂】 前の道路(県道65号線)から見た松風村雨堂 入口に「名勝 松風村雨堂」の碑 史跡内の様子。正面右手の庵が松風村雨堂のようだ。 この松は「衣掛松」。行平が旅立つときに狩衣と烏帽子をこの松に掛けたと伝えられるが、この松は三代目。 初代か二代目の衣掛松の切り株が保存されていた。 さて次の、百人一首の在原行平の歌は一般的に因幡の国(鳥取県)で詠まれたものだとされるが、須磨から都に還るときに詠まれたものだという説もある。 |
立ちわかれいなばの山の峯に生ふる まつとしきかば今かへりこむ | 在原行平(百人一首) |
この場合、「私はあなたたちと別れ、都へ行くが、“いなばの山”に生える松のように、あなたたちが私の帰りを待つというのを聞けば、私はすぐにでも須磨に帰って来よう」(Wikipedia「松風村雨堂」より)の意味になる。 “いなばの山”は現在の月見山らしい。 向こうに見えるのが月見山。 さて在原行平が都へ帰る時、名残を惜しんで須磨の松枝はことごとく都の方へ靡いたとされる。これが「磯馴松」として伝わっている。 なんと、史跡内には西の方へ靡いた松があった。たまたま西の方に向かって成長したのだと思うが、現在の「磯馴松」だとされている。 「磯馴松」を詠んだ歌 |
すまの浦や渚にたてる磯馴松しづえは波のうたぬ日ぞなき | 源俊頼 |
ここは謡曲「松風」の謡蹟でもある。 実は「松風」のことはよく知らないのであるが、その中で松風が詠んだ歌 |
三瀬川絶えぬ涙のうき瀬にも 乱るる恋の淵はありけり | 松風 |
在原行平は、天皇に許されて喜んで(?)都に帰って行ったが、残された二人の姉妹は悲嘆に咽んだのだろう。 それに比べると、光源氏は立派である。 明石の君をちゃんと都に迎えたのだから。(物語であるが) 【摂津名所図会】 早稲田大学図書館 行平と松風村雨姉妹の出会いの場面。 あと、在原行平が須磨に流されてわび住まいしているときに詠んだ歌が残っている。 |
わくらばにとふ人あらば 須磨の浦に藻塩たれつつ わぶとこたへよ | 在原行平 |