すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


松島(宮城県松島町)




日本三景の松島に行ってきた。
さすがに絶景であった。


ところが、

う〜ん、写真を撮ってみたが、まったくイケてない。
こんなもんではなかった。
(五大堂からの眺望)


これも

「西行戻り松」からの遠望
それなりの写真であるが、もうひとつ。

桜もなく、新緑でもなく、紅葉でもない冬の1月に訪問したので、殺風景な光景になってしまった。





そんな松島を松尾芭蕉は奥の細道で次のように絶賛している。

 そもそも、ことふりにたれど、@松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭西湖を恥ぢず。東南より海を入れて、江のうち三里、浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹(そばた)つものは天を指さし、伏すものは波に匍匐(はらば)ふ。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫愛すがごとし。A松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲をおのづからためたるがごとしBその景色ヨウ然として、美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)Cちはやふる神のむかし、大山づみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽くさむ
(奥の細道 松島)

下線部を訳すと、
@松島は日本第一の絶景であって、まずは中国の洞庭・西湖に比べても遜色がない
A松の緑も色濃く、枝葉は南風に吹き曲げられ、その曲がりくねった枝ぶりは、自然のうちにまるで人工をもって曲げ整えたかのように思われる
Bその景色の美しさは、見る人をして恍惚とさせ、かの東坡の詩にいう、美女がいやが上にも美しく顔を化粧したかのごときおもむきがある
Cこれは遠い神代の昔、大山祇の神のなしたしわざであろうか。かかる造物主の霊妙な仕事をば、いったい何人が彩管をふるい、詩文をおどらせて表わし尽すことができるだろう
(新訂 おくのほそ道/角川文庫)



う〜ん、素晴らしい! 









松島の観光ポイントはたくさんあるが、今回は「瑞巌寺」「雄島」「五大堂」「西行戻り松」を訪問した。このうち「瑞巌寺」と「雄島」は別ページで紹介しているので、ここでは「五大堂」と「西行戻り松」について


【五大堂】
松島のシンボル・五大堂は、大同2年(807)坂上田村麻呂が東征のとき、毘沙門堂を建立し、天長5年(828)慈覚大師円仁が延福寺(現在の瑞巌寺)を開基の際、「大聖不動明王」を中心に、「東方降三世」、「西方大威徳」、 「南方軍荼利」、「北方金剛夜叉」の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになりました。
(松島観光協会)



これが五大堂。
小さな島にあり、海に向いて建つ。




五大堂には「すかし橋」を渡っていく。
橋桁の間が空いており、下の波が透けて見えるので「すかし橋」という。




五大堂の小島を横から見る。
二つの小島が連なっていて、それぞれ二つの「すかし橋」を渡っていく。






【西行戻り松】
西行法師が諸国行脚の折り、松の大木の下で出会った童子と禅問答をして敗れ、松島行きをあきらめたという由来の地。 この公園の一帯は260本余の桜の名所で、展望台からは桜と松島湾の景色が一体となった、他に類をみない花見が味わえます。
(松島観光協会)



「西行戻しの松公園」が整備されていた。



防災拠点としても使用できるようだ。



「西行戻し松」の石碑



松島湾を望む。
桜の季節はサイコーだろう。





こんな松島を詠んだ歌


たよりある風もやふくと松島によせて久しき海人のつりぶね 清少納言

陸奥にありといふなる松島まつに久しくとはぬ君かな 古今六帖

松島雄島の磯にあさりせし海人の袖こそかくはぬれしか 源重之(後拾遺集)

松島海人のとまやは知らねども我が袖のみぞしおれわびぬる 後鳥羽院集

更くる夜を心ひとつに恨みつつひと松島海人の藻塩火 拾遺愚集


松島雄島の磯の秋の空名高き月や照りまさるらん 伊達政宗



「松島」と「待つ」を掛けたり、「海人」が登場したりと、予想通りの歌いぶりである。














天橋立も宮島にも行ったので、
これで日本三景制覇です




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