すさまじきもの ~歌枕探訪~


待宵小侍従墓(大阪府島本町)




ふ~ん。
待宵小侍従ってこんな人だったのか、知らなかった。
このページ作成に先立ち、WIKIPEDIAを読んでみた。


WIKIPEDIAより
小侍従(こじじゅう、生没年不詳:1121年(保安2年)頃 - 1202年(建仁2年)頃)は、平安時代後期から鎌倉時代の歌人である。女房三十六歌仙の一人。石清水八幡宮護国寺別当光清の娘。母は小大進。太皇太后藤原多子の女房として出仕したため太皇太后宮小侍従あるいは大宮小侍従と呼ばれ、また『平家物語』等に記されたエピソードから待宵の小侍従(まつよいのこじじゅう)として知られる。『源平盛衰記』では、高倉天皇の在位中は阿波の局と名乗っていたとする。   




と、どんなエピソードだったのか、WIKIPEDIAより
『平家物語』に「待宵の小侍従の沙汰」として、太皇太后多子の「待つ宵と帰る朝とは、いづれかあはれはまされるぞ」との問いに対して、即座に
待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは
     — 『平家物語』(百二十句本)第四十二句「月見」
と詠んだことで「待宵の小侍従」の名を得たこと、また背が低いため「小侍従」と呼ばれた旨が記されている。  


平家物語にこんなこと書いてあったとは!
まったくおぼえてない。





とにかく、この待宵小侍従の墓があるというので行ってみた。

場所は地図の通り名神高速の隣。
もともと墓があった場所は名神高速建設で立ち退きとなり、この場所へ移されたとのこと。


すごい力作の案内板であった。



こっちの方が墓


これが顕彰碑
慶安3年 高槻藩主永井直清が建てたとのこと




「摂津名所図会」
左の上に待宵小侍従墓がある。
その前に池がある。


これがその池だろう。

待宵小侍従墓から南方向





こんな待宵小侍従を偲んで詠んだ歌がある。


今もなほありし昔の待宵もふけ行く鐘の音に聞きつつ 烏丸光広卿




 








WIKIPEDIAを読んでみると、上記の他にも待宵小侍従に関する
いろんなエピソードが載っていたので、また見てください。