すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


奈呉(なご)の海(大阪市浪速区)





「奈呉の海」は越中万葉の歌枕として有名であるが、摂津住吉の関連でも詠まれている。
住吉関連の歌枕としては、「敷津浦」「出見の浜」「霰松原」「浅香の浦」「粉浜」「浅沢小野」「長居」「遠里小野」「姫松」「細江」「津守」などがあり、これまでにそれぞれの場所を特定し、現地訪問を果たしてきた。
ところが「奈呉の海」は本を読んでも地図で探しても全く分からず、自分の中ではずっと『行方不明の歌枕』として諦めていた。


そのような中、先般「摂津名所図会」を読んでいて、「名呉浜」の記載があってびっくりした。

名呉浜
今の日本橋の南、今宮・木津・難波村等の総名なるべし。
大むかし応神天皇の御宇、呉人
呉織(くれは)綾織(あやは)、此の浜に着岸せしより此の名あり。
呉人の往来の道を名呉坂・名呉原と「日本紀」にあり。
今の住吉街道、いにしへ皆海にして、住吉浦より続きぬれば、住吉の読み合せの古詠多し。
前板の書に住吉にありとして其所を詳らかにせず。
今時今宮村より鮮魚を
(みつぎ)とするも海辺の遺風なるべし。
日本橋より南の町を土人長町(ながまち)と呼ぶは誤りなり。
実は名呉町(なごまち)なるべし。

又越中に同名あり。歌によって別つ。
(摂津名所図会)


え〜と、大昔に呉の国からやってきた人が上陸したため「名呉」となった、日本橋の南にある「長町」というのは誤りで、本当は「名呉町」である、とのこと。


地誌の中の基本資料である摂津名所図会にこんな明確に記述されているのを今まで見逃していたのは汗顔の至りであるが、とにかく問題が氷解し、大満足である。


さてその長町であるが、太古の名呉の海が中世に陸地化し、紀州街道の旅籠町として発展した。東海道中膝栗毛の弥二さん喜多さんもこの町の木賃宿で泊っている。安宿が並んでいたようだ。
現在の日本橋4丁目から6丁目あたり、堺筋をはさんだ地域で、「でんでんタウン」と呼ばれる“電器の街”になっていた。



【でんでんタウン】











私が子供の頃は上新電機の大型店が建ち並び、大いに賑わっていたが、現在ではアニメ、フィギュア、コスプレ、メイド喫茶などオタク趣味の店舗が軒を連ねて「オタロード」と呼ばれているらしい。
また外国人も多かった。






そんな「奈呉の海」を詠んだ歌


住吉名児の浜辺に馬立てて玉拾ひしく常忘らえず 万葉集

名児の海朝明(あさけ)のなごり今日もかも磯の浦みに乱れてあるらむ 万葉集

奈古の海 霞の間より ながむれば 入日をあらふ 沖つ白波 藤原実定(新古今和歌集)

奈古の江に葦の葉そよぐみなと風こよひも波に寒く吹くらし 夫木和歌抄

拾ふてふ玉ひかるなりすみよし名児の浜辺の秋の夜の月 夫木和歌抄

うら風のふけゆくままに寒からんなごの入江に千鳥つまよぶ 夫木和歌抄

徒らに朽ちや果てなんたづのなく名呉江の小菅むすぼほれつつ 夫木和歌抄

奈古の海汐干のかたはとほけれど目に近かりし淡路島 夫木和歌抄



越中国富山にも「奈呉の海」がある。こちらは相当有名な歌枕である。また三重県四日市に面した海も「奈呉の海」と呼ばれることがあるが、マイナーだ。
それぞれの歌枕は、歌の内容によって区別するようだが、中にはいずれとも断定できないものもあるという。






さて、この写真はでんでんタウンから西の方を撮った写真。

海の方角で、なんとなく下り坂になっている。
なんとこの先の町名は「敷津」で、まさに高名な歌枕である。
これは、往古の「奈呉浜」から「敷津浦」を望んだ感動の写真である。














とにかく外国人だらけです。






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