すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


奈呉の浦(富山県射水市)




「奈呉の浦」(なごのうら)は、富山湾(越中国)と大阪湾(摂津国)の二か所の歌枕。それぞれ万葉の時代から詠まれている。富山の方は大伴家持とその取り巻きメンバーにより秀歌が残されている。大阪の方は、住吉の海岸のことであるが、現在では場所を特定できない。そのほか「那古の浦」と書いて、四日市の沖合の海を指すことがある。蜃気楼で有名。




今回は大伴家持で有名な、富山湾の「奈古の浦」に訪問した。




先ず向かったのは、富山県射水市の放生津八幡宮。

創建は746年、大伴家持が豊前国の宇佐神社から勧請したと伝わっている。



境内は閑散としていたが、堂々たる社殿であった。



境内にあった「祖霊社」。祭神は大伴家持とのこと。



「祖霊社」の傍らに大伴家持の関連の石碑があった。びっしりと漢文が刻まれていたが、何のことか分からなかった。



神社の裏側は、昔はここまで海があったらしく、「奈呉之浦」の石碑が立っている。



ここは昔の砂州の上に位置するようで、周囲よりもひときわ高くなっている。


石碑の場所から北側を望むと、埋立地の向こうに海が見える。
この海が「奈呉の浦」である。






境内のそこらかしこに歌碑や句碑が立っていた。

(不明な石碑も多かった)










放生津八幡宮を出て次に向かったのは、まさに奈古の浦の海岸。


これが万葉故地の奈古の浦!
いやはや感動の景色である。



氷見方面を眺める。
この先は渋谷や松田江の長浜につづく、まさしく万葉故地銀座。



奈呉の浦大橋が見えた。











さて、往古、当地には西から砂州がのびて、内側に潟湖が形成されていたらしい。潟湖をめぐる情景は見事だったらしく、大伴家持らに歌に詠まれて「奈呉の浦」の歌枕が生まれたようだ。
この潟湖は放生津潟と呼ばれてその後も当地一流の景勝地であったが、戦後の高度成長期に工業発展のため富山新港が造成されて、潟湖は消滅した。

現在の富山新港

潟湖だった当時の地形をなんとなく感じる。




こんな奈呉の浦を詠んだ歌




東風 いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣りする小舟 漕ぎ隠る見ゆ 大伴家持(万葉集)
(解説)早春の名呉の浦の景、「東風」は当市では「アイの風」とよび、
北から吹いて豊かな海の幸を運ぶという。(放生津八幡宮) 
 


放生津八幡宮の境内に歌碑



奈呉の海人の 釣する舟は 今こそは 舟棚打ちて あへて漕ぎ出め 秦八千島(万葉集)


奈呉の海の 沖つ白波 しくしくに 思ほえむかも 立ち別れなば 大伴家持(万葉集)


奈呉の海に 舟しまし貸せ 沖に出でて 波立ち来やと 見て帰り来む 田辺福麻呂(万葉集)


奈呉の海に 潮のはや干ば あさりしに 出でむと鶴は 今そ鳴くなる 田辺福麻呂(万葉集)


あゆをいたみ 奈呉の浦廻に 寄する波 いや千重しきに 恋ひわたるかも 大伴家持(万葉集)


みなと風 寒く吹くらし 奈呉の江に 夫婦呼びかはし 鶴さはに鳴く 大伴家持(万葉集)


なごの浦にとまりをすれば敷妙の枕に高き奥津白波 後二条院(続千載和歌集)


荒潮のうなはらこえて船出せむ 廣く見まはらむとつくにのさま 明仁皇太子


放生津八幡宮の境内に歌碑




早稲の香や分け入る右は有磯海 松尾芭蕉(奥の細道)


放生津八幡宮の境内に句碑

この石は真ん中で割れたらしく、セメントで修復されていた















名物は白イカでした






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