大阪の大東市のJR片町線の駅近くに、清少納言、枕草子の「渕は、」で採り上げられている勿入渕の旧跡がある。
かつて大阪平野に広がっていた河内湖。まことに景趣に優れていたようで、ことに現在の大東市付近の水辺は勿入渕という名所となり、都にも知られるものであった。
清少納言は、おそらく勿入渕へ行ったことはないものの、そのユニークな名称に惹かれたのだろう。
勿入は「な告りそ」に通じ、「告げないで」の意味。
もし別の名称だったら、たぶん枕草子に載らなかったことだろう。
【現地訪問】

仕事で客先へ行く途中にあった。
現在では地形が変化していて、ここからは全く水辺を想像できない。

きっちりと史跡として整備されているのは本当にうれしい。

勿入渕の前の道の様子

反対側。この先にJR片町線鴻池新田駅がある。
現地の案内板
勿入渕跡
大阪平野の上町台地より大東市にかけては地形的に低く、縄文時代では河内湾、弥生〜古墳時代には河内湖が広がり、「古事記」には「日下江」とあり、この地域一帯には古来より大きな水域が広がっていました。
平安時代には、その規模は縮小され大東市から東大阪市にかけての大きな池となり、勿入渕(ないりそのふち)と呼ばれていました。平安時代中期に清少納言は「枕草子」のなかで「ないりその渕。たれにいかなる人のをしへけむ。」と記しています。
江戸時代にこの池はさらに縮小し、大東市域では「深野池」、東大阪市域では「新開池」と呼ばれる二つの池に分かれますが、特に「新開池」にその名残をとどめており、貝原益軒の「南遊紀行」には「内助が淵」、「河内志」や「河内名所図会」には「勿入淵(ないりのふち)」として記されています。
現在地は、これらの北側堤防にあたり、付近には堤防であった地形がよく残されています。また、この堤防は古堤街道と呼ばれる街道となり、人々の往来で賑わいました。
平成二十三年三月 大東市教育委員会
 |
|