こんな歌枕の地が大好き。 もともと嵯峨天皇(786年〜862年)が大覚寺を建立した当時、庭園として造営した大沢の池へ流れ込む流路に、高低差を利用して人工の滝を築造した。 この水路はいつしか水が流れなくなって、平安中期には滝が涸れてしまったようだ。 三舟の才で有名な藤原公任(966年〜1041年)は、この流れの絶えた滝を見て有名な次の歌を詠んだ。 |
滝の音は たえて久しく なりぬれど名こそ流れて なほ聞こえけれ | 藤原公任(百人一首) | |
滝の流れる水音は、聞こえなくなってからもうずいぶんになるけれども、 その名声だけは流れ伝わって、今でも人々の口から聞こえていること だよ。(小倉山荘のホームページより) |
この歌から、この枯れ滝は「名古曽(なこそ)の瀧」と呼ばれるようになった。 公任と同時代の赤染衛門(956年?〜1041年以後?)の歌はちょっと違ったニュアンスである。 |
あせにける今だにかかる滝つ瀬の早くぞ人の見るべかりける | 赤染衛門 |
(私訳)だんだん衰えてきたが、今でも流れる滝を、今のうちに見ておくべきだ。 (そのうちに枯れてしまうだろう) |
公任は「絶えて久しく」とし、赤染衛門は「あせにける」(衰える)とする。 歌の世界なので、科学的な評価は意味がない。 多分、普段は枯れているが、雨の降ったあとなどは、少しだけ流れたのだろう。 大覚寺探訪の際に訪問した。 ![]() 「名勝 大沢池 附 名古曽瀧跡」の碑 ![]() これが名古曽瀧! いや〜素晴らしい! ![]() 角度を変えて撮影 ![]() 近寄って接写! ![]() 案内板があった ![]() 昔はこんな感じであったようだ。右手は大沢池。 (名古曾瀧は赤い点のところ) ![]() 中世の遣水が発掘されて、全容が分かってきたようだ。 西行の歌を掲載するのを忘れていた。 西行は平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した人物であるが、名古曽の瀧は完全に枯れていたようだ。 |
今だにもかかりといひし瀧つせのその折までは昔なりけむ | 西行 |
今でさえもこんなに見事に滝がかかっている、と赤染が詠んだ名こその滝は、 もう今は立石に至るまで跡形もない。あの歌の頃はまだ面影が残って いたんだな。全く惜しいことをした。(和歌文学大系21) |
とにかく、赤染衛門が衰えてきているがまだ流れていると詠んだ名古曽の瀧は跡形もなくなっていると嘆いている。 |