すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


鳴海(名古屋市緑区)




中世の東海道では、熱田神宮から鳴海までの間は干潟を通っており、潮が満ちているときは「潮待ち」をしたり、大周りの陸路を通って行ったりしていた。
有名な歌枕の地であるが、旅することが一般的でない中世の時代に、実際にここまで来た人は極めて少ない。
多くの人は都に住みながら、遠く鳴海を思い、『成る身』や『成る』に掛けて詠んだり、「干潟」なので『千鳥』を登場させたり、また「浦」から「恨み」を導いたりしていた。




それでは実際に鳴海に来た人はどんな歌を歌ったのか。

春の色も やよひの空に なるみがた いまいくほどか 花もすぎむら 後深草院二条(とわずがたり)
春の景色も三月の空になったようだ。もう少しで花は散り杉林になるのだろうか 


う〜ん、
この地に来た人も結局のところ都の人と同じように、ダシャレ系の歌に仕上げている。
「とわずがたり」の作者の後深草院二条という女性は後深草院の愛人のような存在であった。少女時代から西行法師に憧れていたが、運良く(悪く?)御所を追放されたので、西行と同じように歌の旅に出たという逸話がある人。





もうひとつ

祈るぞよ わが思ふこと 鳴海潟 かたひく汐も 神のまにまに 阿仏尼(十六夜日記)


う〜ん、
これもダシャレ歌。
「十六夜日記」の作者の阿仏尼は、相続争いの件で鎌倉幕府に訴えるために東海道を下ったが、道中さまざまな神社等に勝訴を祈願して和歌を奉納した。この歌も必勝祈願の歌と言える。











まあ、そんなこんなで鳴海に行ってきた。
行ったのは戦国時代の鳴海城の跡地で、現在の天神社。
歌碑や句碑があるという情報があった。


天神社。
素朴な感じの小さな神社。


天神社から海方面を展望。
この下に干潟が広がっていたようだ。
現在は、陸地になっていて海は見えない。


神社内の歌碑・句碑


鳴海らを 見やれば遠し 火高地に この夕潮に 渡らへむかも 日本武尊
奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由不志保尓 和多良牟加毛 

日本武尊の東征の折に、この地に立ち寄り、対岸の火高(大高)丘陵の尾張氏館を望見して詠んだとのこと。(古事記) 


境内に日本武尊の歌碑






飛鳥井雅章公の 此宿にとまらせ給ひて、
「都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてゝ」
詠じ給ひけるを、自かゝせたまひて、
たまはりけるよしをかたるに(笈の小文)

京まではまだ半空や雪の雲 松尾芭蕉








よき家や雀よろこぶ背戸の粟 松尾芭蕉














江戸時代は東海道五十三次の宿として整備された。
広重の東海道五十三次(浮世絵)の鳴海宿は木綿絞り染め浴衣の商店を登場させている。このあたりは「鳴海染」や「有松染」が有名で、現在でも名産地になっている。


とは言っても、モチーフとしては地味。



















「鳴海」は結構メジャー感のある歌枕と思ってましたが、
行ってみると、ただの住宅地になってました。





copyright(C)2012 すさまじきもの 〜「歌枕」ゆかりの地☆探訪〜 all rights reserved.