すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


那須野(栃木県那須町?)




どうも行く先を間違えたようだ。

「奥の細道」の行程とか位置関係を考えても、なんとなくおかしいと思っていたのだが。

古来、歌枕として「那須の篠原」があって、それは栃木県の大田原市辺りに広がっていた原野だそうだ。

一方、私が「那須野」のゆかりの地として訪問したのは、那須町の那須温泉神社(殺生石)の近辺。那須町であるし、那須野御用邸もあるので、ここで決まり!と考えていた。

東北旅行から帰ってきて、改めて「奥の細道」を読んでみて、やっぱりおかしいと思った。芭蕉たちは、黒羽(大田原市)で「那須の篠原」を見た後に、雲厳寺を経て那須温泉神社(殺生石)に向かっている。

つまり、私が訪問した「那須野」は「那須の篠原」ではなかった。

う〜ん、「那須」といっても色々あるんやな。




これについて、栃木県のホームページに分かりやすく説明されていた。

■那須野ヶ原とは

定義

栃木県の北東部に位置する広大な平地とそれに続く、ゆるやかな丘陵・高原をいいます。
広義には、箒川以北、福島県境までの山地を除いた地域の約7万haです。
狭義には、このうちの南半分の箒川と那珂川に挟まれた木の葉形の地域の約4万haです。
このうち明治初年までは那須東原、那須西原と言われた約1万haの広漠たる原野がありました。


(栃木県のホームページより)


これによると、私が訪問したのは「広義の那須野の原」であって、「那須野」には間違いなかったが、世に言うところの歌枕「那須の篠原」ではなかった。
さすがに松尾芭蕉は正解である。きちんと「那須の篠原」を見学し、所期の目的を達成している。


なお、私が間違った理由は簡単。事前勉強不足と土地勘がなかったこと。大阪在住の私にとって、栃木県も下野国も那須野も福島もみちのくも全部同じように見え、違いがなかなか分からない。


手前味噌であるが、私は南大阪の、泉州、泉北、泉南、阪南、和泉、泉大津、泉佐野、和泉鳥取、和泉中央、泉が丘など「泉」関連の地名を完璧に峻別できる。
地元なので。











以上のような状況であるが、とりあえず私が撮ってきた写真







これらは那須温泉神社(殺生石)の東側の山麓の写真で、栃木県の定義によると「広義の那須野」になるようだ。

なんと言うか、多分この辺りの風景はどこも同じだろうから、広義も狭義も風景としては変わらないのだろう。






次に那須温泉神社



参道。
殺生石のすぐ隣り。





源平騒乱の屋島の戦いで、那須与一が扇の的を射るに際し、当神社に成就祈願したということで有名らしい。


こんな感じで平家物語に登場
 「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度(ふたたび)面(おもて)を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」

と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。

(平家物語 巻十一 那須与一)
ふ〜ん、そうだったのか。


曽良が記した曽良日記には、那須温泉神社に参詣し、那須与一関連の宝物を見学したとの記録がある。




芭蕉の発句

をむすぶ誓ひも同じ石清水 芭蕉


那須温泉神社の境内に句碑







昭和天皇御歌の歌碑があったが、内容不明



 




その他、那須野に関連する歌を少し紹介


みち多き那須野のみ狩りの矢さけびに、のがれぬ鹿の声ぞ聞こゆる 藤原信実


もののふの矢並つくろふ小手の上に、霰たばしる、那須の篠原 源実朝


那須野の平原では、古来は狩をしたり、武士の世になってからは軍事演習をする場所だったことがわかる。






いとまあらば君も一度来て見ませ 那須野が原の雪のあけぼの 乃木希典

乃木希典の場合は軍隊とか関係なく、那須野の景色を詠んでいる。
那須塩原市に別邸があったらしい。









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そう言えば、東北新幹線の名称にも「なすの」があったっけ。






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