すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


大津京(滋賀県大津市)




大津京跡にあった案内文より
西暦667年、天智天皇は新羅・唐の連合軍と対戦した白村江の戦いが敗北に終わった後、突然都を飛鳥から近江に移しました。この付近に営まれた宮が大津宮です。天智天皇は律令制に基づいた天皇を中心とする統一国家を作ろうとしましたが、遷都後わずか5年でこの世を去り、その後に起きた壬申の乱によって大津宮自体も廃墟となってしまいました。わずか5年5カ月の短命のみやこでした。








日本史が苦手で、近江王朝とか大津京とか天智天皇とか壬申の乱とか、あんまりよくわかりません。
日本史が苦手なのは学生時代の日本史の先生の教え方が悪かったせいと、勝手に思い込んでいます。そのまま大学入試は地理を選択したので、今となっては基本的なこともわかってません。

さすがに最近は、近江に都があったこととか、そこが古い都と言われていたことがわかってきました。

そんな古都、大津の大津京跡に行ってきました。



「志賀の都は荒れにしを〜〜」
都が奈良に移転した後は、いったん荒れましたが、その後、幾年月もかけて住宅街となり、そして最近は発掘調査で掘り返されて、だんだんと全容が分かってきたようです。
ここは大津京跡の「錦織遺跡」です。



「錦織遺跡」周辺の様子。
大津市の住宅街となってます。



柿本人麻呂の万葉歌の歌碑登場!
これは素晴らしい!




近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本人麻呂朝臣の作れる歌

玉襷 畝火の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし 神のことごと 樛の木のいやつぎつぎに 天の下 しろしめししを 天みつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 念ほしめせか 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも  柿本人麻呂
(万葉集)

歌碑は「大津京跡」にあり




この万葉歌の大作の反歌は次の三つ

さざなみの 志賀辛崎 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ 柿本人麻呂
(万葉集)


楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも 柿本人麻呂
(万葉集)


近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ 柿本人麻呂
(万葉集)








同じ場所に「志賀宮跡」石碑もありました。


とにかく住宅街の一角でした。
自分たちの住んでいる地面の下に、昔の都の跡があるというのは、なんとも言えない気分でしょう。




これも人麻呂の歌で、同じような歌意です

楽浪の大津宮は名のみして霞たなびき宮木守なし 柿本人麻呂








そのほか、大津京を詠んだ歌

今ぞ見む大津の宮の定めおきし天つ日嗣(ひつぎ)の道のためしも 権大納言実隆
文亀三年三十六番歌合)










歴史好きにはたまらない場所だと思います。




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