すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


岡部の原(埼玉県深谷市)








1486年6月、聖護院門跡の道興准后は諸国遊覧の旅に出た。北陸から上野国を通って武蔵国に入った。そして岡部にたどり着いた。



岡部の原といへる所はかの六弥太といひしものゝふの旧跡なり。
近代関東の合戦に数万の軍兵討死の在所にて、人馬の骨を
もて塚につきて、今に古墳数多侍りし。しばらくゑかうして
くちにまかせける。


なきをとふ岡部の原の古つかに秋のしるしの松風そふく

道興准后(廻国雑記






岡部の原は、平家物語で須磨の浦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄の所領地であり、六弥太の墓も岡部の原にある。


道興准后は六弥太の墓に参拝し、秋風の吹く様子に侘しさを感じたようだ。










■ 現地訪問



これが岡部六弥太忠澄の墓



門が閉まっていて、中には入れなかった
五輪塔があるらしく、他のホームページでは中に入って写真を撮っていた
まあ、石塔に興味が無いので問題は無い



周りの風景



利根川の氾濫原だったためか、川砂が覆っていた



現地の案内板を転載する

岡部六弥太忠澄の墓

 岡部六弥太忠澄は、武蔵七党の一つ猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に居住し、岡部氏を称した。
 忠澄は忠綱の孫にあたる。源義朝の家人として、保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、保元・平治物語、源平盛衰記に書かれており、特に待賢門の戦いでは、熊谷次郎直実、斉藤別当実盛、猪俣小平六等源氏十七騎の一人として勇名をはせた。その後、源氏の没落により岡部にいたが治承四(一一八〇)年、頼朝の挙兵とともに出陣し、
はじめ木曾義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では、平氏の名将平忠度を討ち一躍名を挙げた。恩賞として、荘園五ヵ所及び伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の譜代の家人三一三人の中にも六弥太の名が見える。忠澄は武勇に優れているだけでなく、情深く、自分の領地のうち一番景色のよい清心寺(現深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。
 現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が六基並んで建っているが(県指定史跡)、北側の三基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ一・八メートル)、向かって右側が父行忠の墓、左側が夫人玉の井の墓といわれている。
 忠澄の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳が出るようになるという迷信が伝わっており、このため現在、六弥太の五輪塔は削られ変形している。
     平成三年三月
                     埼玉県
                     岡部町

















源平の一の谷の戦いを思い出しました





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