すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


男水門(大阪府泉南市)




えーと、
神武天皇の東征で、浪速(なみはや)の渡りを遡り、河内国日下に着いたものの、長髄彦の抵抗に遭い、五瀬命(神武天皇の兄)が矢を受けて皇軍は敗走。茅渟の海を回ってたどり着いたのが「男之水門」(おのみなと)
「卑しい奴にやられてしまった!」と五瀬命が男建(おたけび)して死んだので、この地名になったようだ。
ただし男水門については、泉南と和歌山の両方に候補地があり、「両説、決し難し。後考を俟(ま)つ也」(和泉名所図会)とある。





今回、泉南の男水門に行ってみた。

天神の森として市民の憩いの場になっていた。




と、突然踏切の鳴る音がして振り返ると、南海電車が走っていた。






南海電鉄の特急サザンの連続写真




この森の中に男神社の摂社である浜の宮があった。



スティール製の鳥居って、なんともしっくりこない。






石碑があったが剥落していてよくわからなかった。



これは「神武天皇聖蹟雄水門顕彰碑」


現地案内板によると、天神の森の辺りは往昔は海面だったらしく、水深もあったことから船の停泊地になっていたようだ。
今となっては想像もできない。


常ならぬ世をのみなとかうらむらん人の心のさためなきをは 懐中抄/和泉名所図会







多分同じような名前の由来があるのだろう、この天神の森のすぐ近くを流れる川の名前は「男里川」。

男里川の河口付近はハゼ釣りのメッカとして秋には釣り人が集うのだが行ったことがない。駐車場がないのがネック。

そんな話はどうでもいいのだが、この男里川を遡ったところに男神社の本宮がある。

というか、社伝によると摂社「浜の宮」の地が本来の元宮で、のちに遷座して現在の本宮になったという。




「浜の宮」と間違えて訪問した時の写真が残っているので掲載する。

【男神社 本宮】

立派な社叢の中の参道を行く。



そしたら立派な社殿が現れた。



お約束というか、「夫婦樟」があった。



【男神社の案内板】
 元府社男神社は大阪府泉南市男里即ち古への呼唹郷の地である延喜式内神社で、本殿には彦五瀬命、神日本磐命彦命を祀り、相殿には天児屋根命、熊野速玉神を祀る。境内一万五千平方メートル(五千坪余)老樹欝蒼として幽邃絶塵の神域をなしている。その北方一キロ余の処に攝社浜宮がある。本社の元宮で境内九千平方メートル(3000坪)松樹茂って海風に鳴っている。聖蹟雄水門は即ち此の地である。神武天皇御東遷の砌孔舎御坂で長髄彦と激戦した。此時、皇兄彦五瀬命が賊の流矢に中って肱脛に瘡を負はせられ「吾は日神の御子として日に向ひて戦ふこと良はず、故れ賤奴が痛手をなも負ひつる、今よりはも行き廻りて日を背負ひてこそ撃ちてめ」と仰せられた。よって血沼の海即ち今の大阪湾を南進し紀伊に向わせられよとして、紀元前三年五月八日(太陽暦六月二十日)此の地に着き給ふたが、彦五瀬の御瘡いよいよ重らせられた命は劒の柄を堅く握られ「慨哉大丈夫にして被傷於虜手報いずして死なむや」と雄詰び給ふた。よって此の地を雄水門といふ。

即ち彦五瀬命、雄詰の遺蹟雄水門、今の浜宮の地に、命と神武天皇の御神霊を祀ったのが当地で社伝によれば貞観元年三月、今の地に御遷座し奉ったという毎年十月十一日の例祭には本社より聖蹟雄水門の地神輿渡御の儀が行はれる。明治七年七月、畏き辺りより幣帛料を下賜せら給ふた。(泉南中央ライオンズクラブ)








地図の海に近い方が男水門(男神社の浜の宮)
下の方が男神社の本宮







昔は海だったところが陸地になっているのは何とも感動します。







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