すさまじきもの ~歌枕探訪~


佐野(さの)舟橋(ふなはし)(群馬県高崎市)








いやはや「佐野舟橋(さののふなはし)」は群馬県の中で「伊香保沼(いかほのぬま)」と並んで、いかにも歌枕らしい歌枕である。

たしかに、「いかにも歌枕」としてさまざまな要素を兼ね備えている。
点描してみると、


・まず、万葉集に詠まれていること。東歌に「佐野」は三首も収録されている

・そしてこの地には男女の悲恋の物語が語り継がれており、それをもとにした万葉歌も詠まれている

・「橋」の縁語の『渡る』『掛かる』などを用いて詠み継がれていった

・藤原定家も佐野の歌を詠んだ、その縁で当地に「定家神社」が祀られた(※ 但し定家の詠んだ佐野は紀伊国の佐野だというのが定説)

・男女の悲恋をもとに、世阿弥が能の演目「佐野舟橋」を創作している

・またここは「いざ鎌倉」で有名な能の演目「鉢木」の謡跡でもある。シテの常世の住居跡に常世神社が鎮座

・旧中山道の道筋に近く、多くの旅人が立寄った

・2014年になって、ゆかりの地に上信電鉄の新駅「佐野のわたし」駅が誕生


等々である。

惜しむらくは、近代になって忘れ去られたような存在になってしまっていること。

一方の伊香保沼が明治時代以降も著名な文人が訪問し、多くの作品を残しているのとは対照的だ。


このページ、書くことが多いが、とりあえず北斎の浮世絵からスタートしたい。








「諸国名橋奇覧、上野佐野舟橋の古図」(葛飾北斎画)

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-2879?locale=ja)




この浮世絵は葛飾北斎の「佐野舟橋」。

現在の群馬県高崎市を流れる烏川に架かっていた舟橋が描かれている。

舟橋は、舟を並べてその上に板を敷いた橋のこと。

佐野舟橋は大昔からこの地にあったらしく、万葉集にも詠まれている。



上野(かみつけの)佐野(さの)の船橋取り(はな)(おや)()くれど我は(さか)るがへ 万葉集


高崎市上佐野町に歌碑



佐野舟橋が板を舟から外すように、親は私たちの仲を裂こうとするが、どうして私たちは離れることができようか、という意味。

これはこの地に伝わる男女の悲恋を取り扱ったもの。

昔々、烏川の両岸に若い男女が住んでいて、毎晩舟橋を渡って逢い引きしていた。

親は二人の邪魔をしようとして、舟橋の板を外したところ、夜中に二人は川に落ちて死んでしまった。

この物語をもとに、能「佐野舟橋」が作られた。









■現地訪問


これが現在の佐野舟橋
洪水になると、橋桁部分が流失することを予め考慮した「流れ橋」
過去に何度も流されているようだ



佐野舟橋の史跡が整備されている



謡曲史跡保存会の駒札があった



少し歩くと上信電鉄の「佐野のわたし」駅
この駅ができたのは2014年のこと



駅の入場門のデザイン
これは後述する謡曲「鉢木」の主人公の佐野源左衛門常世をモチーフとしたもの



上信電鉄の烏川を渡る橋を撮影







佐野舟橋を詠んだ歌


上野(かみつけの)佐野田の苗の群苗に事は定めつ今はいかにせも 万葉集


上野(かみつけの)佐野の茎立折りはやし我は待たむゑ今年来ずとも 万葉集


佐野山に打つや斧音の遠かども寝もとか児ろが面に見えつる 万葉集


定家神社に歌碑



いつみてかつげずは知らん東路と聞きこそわたれ佐野の舟橋 和泉式部


わたる佐野の船橋影絶えて人やりならぬ音のみぞなく 藤原定家


ことづてよ佐野の舟橋はるかなるよその思ひに焦がれ渡る 藤原定家


五月雨に佐野の舟橋浮きぬれば乗りてぞ人はさし渡るらん 西行(山家集)


東路佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるを知る人のなさ 後撰和歌集


東路佐野の舟橋さのみやはつらき心をかけて頼まむ 壬二集


今宵をば秋の最中と数えつつ佐野渡りの月を見るかな 前大僧正慈円


かよひけん恋路を今の世がたりに聞きこそ渡れ佐野の船橋 道興准后(回国雑記)



最初、佐野を詠んだ万葉歌は四首あったが、その中から「上野佐野の船橋取り放し親は放くれど我は離るがへ」(いちばん上掲)が佐野の確固たる歌枕としての地位を築き、後世に影響を与えた。


悲恋の恋物語から恋をテーマにした歌、「橋」から、『渡る』、『掛かる』の縁語を用いたものが、よく詠まれた。















佐野舟橋の近くに能「鉢木」の謡跡がある。
シテの常世の住居跡が常世神社として祀られている。
「鉢木」は、え~と、まぁなんと言うか、よく知らないので現地にあった駒札を転記する。

  謡曲「鉢木」と常世神社
 一族の不正のために領地を横領され、窮迫の生活をしていた武人佐野源左衛門常世が、大雪の日に宿を頼んだ修業者(実は鎌倉幕府執権北条時頼)のために、秘蔵の盆栽”鉢の木”を焚いてもてなしたのが縁で、表彰されたという謡曲「鉢木」の物語は有名で、戦前は学校の教材になっていました。
 これは出家して、最明寺と名乗った時頼の廻国伝説に基づいてつくられたものであるが、常世神社は、常世が佐野の領地を横領せられてのち、住み着いた所といわれる「常世屋敷跡」で、墓は別に栃木県佐野市葛生町の願成寺境内にあります。
 謡曲史跡保存会





■常世神社 (高崎市上佐野町495−2)


小さな参道が続く



鳥居の裏に「伝曰 源左衛門屋敷趾」の文字が



石段を上ったところに小さな祠がある



扁額が奉納されていた



「佐野源左衛門常世遺蹟」の碑



石段の傍らに歌碑があった
 佐野常世のむ()() 正三位 忠元
降り積みし 雪より婦可起(ふかき) 幾美能(きみの)まこゝ()
登古(とこ)しへに ()にのこ類良(るらむ)
 




「能」鉢木の一場面

(『能楽図絵』、国立国会図書館デジタルコレクション)
















「常世神社」から少し南へ下ったところに「定家神社」がある。
祭神は百人一首の選者、歌聖の藤原定家。

Wikipediaによると、
「伝承によると、定家は源雅行との間で起こした揉め事が原因で上野国へ流罪となり、それが許されて京へと戻る際、自刻像と持念仏(観音菩薩像、3寸)を村人たちに贈った。これを神体として作った祠が定家神社の始まりであるという」


新幹線の高架の下の路に面している



広い敷地に社殿があるだけ。あとは広場になっていた



社殿





藤原定家が「佐野の渡り」を詠んだ新古今和歌集の歌、
駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮
この歌は、上野国の佐野ではなく、紀伊国のものとされているが、能「鉢木」でも謡われていることから、定家とこの地が結びつけられたもの。


紀伊国の佐野は三輪崎(みわのさき)とセットの「佐野の渡り」で、海沿いにある。雪の夕暮れのイメージに程遠いところで、たしかに違和感はある。ただしこの歌の本歌が万葉集の
苦しくも降り来る雨か三輪の崎佐野の渡りに家もあらなくに
であり、紀伊国を詠んだものであったため、そのような分類となったもの。















佐野のわたし駅にあったイラスト


常世が大切な盆栽を焚く場面



常世は松、梅、桜を大事に育ててきた




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