すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


三千院(京都市左京区)









女ひとり

京都大原三千院
恋に疲れた女が一人
結城に潮風のすがきの帯が
池の水面に揺れていた
京都大原三千院
恋に疲れた女が一人
デューク・エイセス
永 六輔 作詞
いずみたく 作曲



若狭街道沿いの駐車場近くに歌碑



大原三千院のイメージはこの「女ひとり」の歌だろう。
昔、子供の頃、大原も三千院も知らなかった頃から、この歌は知っていた。なにかのテレビで放送されていたのかな?



WIKIPEDIAの三千院の説明
 三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄である。

京都市街の北東に位置する山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。
(三千院)


じつは、資料によると、三千院は明治4年にこの地に移転してきたらしい。三千院という名称もその時から使われたのだと。もともとこの地にあった諸寺を境内に取り込んで、現在の姿になったとのこと。

あんまり寺社関係に興味がないので、これ以上、よく分からない。

そんな大原三千院に今回初めて訪問した。
たしかに洛北を代表する巨刹で、見るべきところも多かったし、参拝客も多かった。しかも桜の季節の真っ最中であって、絵になる風景も多かった。(惜しむらくは、もう少し写真撮影の腕があれば、そうかスマホではなく高価な一眼レフであれば、とても素晴らしい写真が撮れたのだが・・・ )




■三千院 ・・・ 京都市左京区大原来迎院町540


御殿門(ごでんもん)
お城のような門構えである。
ずっとシャッターチャンスを狙っていたが、結局こんな写真になった。



左が客殿。そして聚碧園という中庭。
さて、室町時代の頓阿上人がこの庭に咲いていた桜の花を詠んだ歌が残っている。

見るたびに袖こそ濡るれ桜花の種を植えや置きけん 頓阿上人(草庵集)

頓阿上人が友の陵阿上人を訪ねてやってきたときに、陵阿上人の手植えの桜を見て感動の涙を流したもの。この歌に因んで桜は「涙の桜」という名称で伝承されている。

今回の訪問では「涙の桜」がどれなのか、よく分からなかった。
三千院のホームページによると、5月に白い花を咲かす桜の老木らしい。一般的な桜よりは1か月ぐらい遅く咲くようだ。
ホームページの配置図から勘案すると、下の写真の左手の枝木が「涙の桜」かなと思う。


客殿から聚碧園を見わたす。



宸殿



え〜と、これは弁天池。
桜の花が水面に浮いていて、風情があった。
一眼レフで撮影したら、素晴らしい写真が残せただろう。



金色不動堂



金色不動堂の近くにあった桜
外国人が感動の悲鳴をあげていた。
この写真の20倍ぐらいの美しさがあった。



観音堂



律川



往生極楽院
それなりの由緒があるらしい。













今回失敗したのは、三千院の奥にある、有名な歌枕の「音無の滝」に行くことができなかったこと。
地図では三千院を過ぎて、来迎院を過ぎて、律川を遡ったところにあったのだが、三千院の中から滝に続く道はことごとく門が閉まっていた。
「音無の滝」に行くには、三千院に入らず、呂川に沿って上っていき、来迎院にも入らず、そのまま進んでいくと律川が現れ、山道を15分ぐらい上ったところにあるらしい。

Googleのクチコミで確認したところ、そのような記述があった。






三千院の中から。門が閉まっていた。



これも



■音無の滝

 良忍上人はじめ、家寛(後白河法皇の声明の師)、湛智など代々の声明法師は、この滝に向かって声明の習礼をさされたという。初めは声明の声が滝の音に消されて聞こえず、稽古を重ねるに従って、滝の音と声明の声が和し、ついには滝の音が消えて、声明の声のみが朗々と聞こえるようになったと言う。それで音無の滝と名づけられたと言われている。
(京都大原観光保勝会)



多分、二度と「音無の滝」に行くことはないので、手元に集めていた関連の歌の紹介


朝夕に泣くねを立つる小野山は 絶えぬ涙や音無の瀧 源氏物語(夕霧の巻)

おぼつかな音なき滝の水なれや行方も知らぬ瀬をぞたづぬる 藤原兼家(蜻蛉日記)

音なしの 滝とは聞けども 昔より 世に声高き 大原の滝 西行

小野山の上より落つるの名は 音無にのみ 濡るる袖かな 西行(夫木和歌集)

恋ひわびて ひとりふせやに 夜もすがら 落つる涙や 音無の滝 藤原俊忠(詞花集)











しば漬が好きです






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