すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


白河の関(福島県白河市)




2016年1月、みちのく歌枕巡りの旅に出た。





先ずはPEACHの早朝便で仙台空港に下り立った。



いきなり陸奥国のど真ん中に着いてしまったが、やはり先人たちと同じく「白河の関」を越えてみちのくの地へ入りたいと思い、レンタカーを借りて東北自動車道を白河市までいったん引き返した。





【白河関跡】

これが白河関跡!



古来、白河関を越えるときは「冠を正し、衣装をあらため」たとのこと。

松尾芭蕉と一緒に旅をした曽良の発句は、

卯の花を かざしに関の 晴着かな 曽良

白河の白を連想させる「卯の花」をかざし、晴着を着たようにして関を越えるという意味。


今さらながら思うのだが、私も白河関を越える時のために蝶ネクタイとかを持ってきていたら、それなりの雰囲気が楽しめたことだろう。


さて、白河関を越える際に正装するというのは、次のような故事に基づく。

むかし竹田大夫国行という人が陸奥国へ下向し白河関を越える時に、衣服を正装に改めてたので、他の人々が理由を聞くと、能因法師が「秋風ぞ吹く白河の関」と詠んだ地をふだんの服装で越えられようか、と答えたもの。





能因が詠んだのはこの歌


みちのくに、まかりくだりけるに、白河の関にて詠みはべりける
都をば 霞と共に 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関 能因法師(後拾遺和歌集)
春霞の季節に京都を発ち、秋風が吹く頃に白河関に着いた(私訳) 


みちのくの地が都からはるかに遠いところにあり、時間的にも長い期間を要す旅であることを表している名歌である。

この歌にもエピソードがある。

実は能因はみちのくへは行っておらず、京の自邸にこもって日焼けをし、まるで現地に行って詠んだかのようにしていたという説もある。

能因自身は生涯に何度かみちのくを訪れているので、たとえこの歌の発表の時は京の自邸にいたとしても、全部が空想という訳ではないだろう。

また古代中国の五行思想で、秋は「白秋」とあるように、秋は白色と相性がよい。河は秋が最適なのである。







【白河神社】
135年、白河国造命と天大玉命を奉納し勅命により鎮座。社殿は仙台藩主伊達政宗が奉納したものと伝えられています。(白河市ホームページ)





【古関蹟碑】

白河藩主・松平定信が、寛政12年(1800)に、この場所が白河関跡に間違いないとし、建立した碑が残っています。(白河市ホームページ)





【幌掛けの楓】

前九年の役で源義家が白河関を通過する際に幌をこのカエデの木に掛けて休憩したという。






【従二位の杉】

鎌倉初期の歌人で「新古今和歌集」の撰者の一人である藤原家隆が
手植えし奉納したと伝えられます。樹齢約800年と推定される巨木です。

(白河市ホームページ)



白河関の感動を松尾芭蕉が次のように「奥の細道」で記述している。

 心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ。 「いかで都へ」と便り求しも理なり。中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉のこずえなほあはれなり。卯の花の白妙に、いばらの花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置れしとぞ。

卯の花を かざしに関の 晴着かな 曽良

白河関に至り、ここから陸奥の国だと思うと、かえって気持ちが落ち着いてきたという。

「いかで都へ」とは、下に掲げる平兼盛の歌のように、いよいよこれから陸奥だということを都の人に伝えたい気持ちはもっともだということ。





「奥の細道」のこの部分の石碑があった。







いやはや、白河関を詠んだ歌は本当に多いが、代表的なものを記す。


たよりあらばいかで宮こへ告げやらむ今日白河の関を越えぬと 平兼盛

秋風に草木の露を払はせて君が越ゆれば関守もなし 梶原景季


白河関跡に歌碑
上記の能因および平兼盛、景季梶原の歌を併刻






雪にしく袖に夢路もたえぬへしまたしら川の関のあらしに 後鳥羽院


白河関跡に歌碑






白川の関屋を月のもる影は人の心をとむる成りけり 西行


しら川の関のなみ木の山桜花にゆるすな風のかよひち 道興准后(廻国雑記)


ゆく春のとめまほしきに白川の関をたえぬる身ともなる哉 和泉式部







最後に川柳碑があった


関所から京へ昔の三千里 川柳
白河を名どころにして関の跡 川柳


白河関跡に川柳碑


















歌枕マニアにとって永遠の聖地です。







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