すさまじきもの 〜歌枕★探訪〜 |
高館(岩手県平泉町)
平泉の高館に訪問する前に、「義経記」の『衣川合戦の事』と『判官御自害の事』を読み返してみた。 源頼朝に追われた義経主従は、奥州藤原家を頼って平泉にやってきた。平泉で義経主従は、藤原秀衡の庇護のもと、北上川に面した丘陵地の高館に居館を与えられた。 しかし、秀衡の死後、子の泰衡の急襲を受けることになる。 衆寡敵せず、義経の家臣たちは次々と討ち死にしていく。 次第に追い詰められ、ついに義経と武蔵坊弁慶の別れの場面。 御名残惜しげに涙に咽びけるが、敵の近づく声を聞き、御暇申し立ち出づるとて、又立ち返り、かくぞ申し上げける。 |
後の世もまた後の世もめぐりあへ、染む紫の雲の上まで | 源義経(義経記) |
六道の道のちまたに待てよ君、後れ先立つならひありとて | 弁慶(義経記) |
と仰せられければ、声を立ててぞ泣きにける。 と、このあと義経は自刃し、弁慶は一人仁王立ちとなって敵の襲撃を防ぎ、ついには有名な弁慶の『立ち往生』となって果てた。 義経記ではこんなふうに記述 立ちながらすくみたる事は、君の御自害の程、人を寄せじとて守護の為かと覚えて、人々いよいよ感じけり。 いやはや、この文章をタイプ打ちしているだけでも感動モノである。 2018年夏、みちのく一人旅の初日に高館に行ったのだが・・・ ![]() 入り口。 階段の下に何かあるが。 ![]() もう終わっていた。 ![]() 受付も閉鎖されていた。(涙) 約500年後、この地を訪れた松尾芭蕉は、奥州藤原三代の栄華を偲び、また滅ぼされた義経たちに思いを馳せて、「奥の細道」に名文を残している。 三代の栄耀一睡の中にして、大門のあとは一里こなたにあり。秀衡が跡は田野に成りて、金鷄山のみ形を残す。先づ高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。康衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、夷をふせぐと見えたり。さても義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 |
夏草やつはものどもの夢の跡 | 松尾芭蕉(奥の細道) |
高館を上ったところに展望台があり、そこから北上川を隔てて真正面に束稲山が見え、左手には北上川の悠久な流れと、衣川の古戦場趾が一望できるはずであった。 そこで芭蕉の「夏草や〜」の句を口ずさむという、みちのく一人旅の初日のクライマックスを計画していたのだが、まったく残念である。 ![]() この写真は、高館から少し下流から撮った束稲山。北上川は木々に隠れて見えない。 |