すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


武隈の松(宮城県岩沼町)




「武隈の松」ほど現地に行った人と行ってない人で歌の値打ちが大きく異なる歌枕はない。

というのは、ふつう松の木は永遠のイメージで歌に詠まれるものであるが、「武隈の松」は、植えて成長したら枯れ、または伐られて名取川の橋柱にされたりと、状況がめくるめく変化している。
このため、歌い手はその時の松の状態を踏まえて歌を詠むことになり、現地に行って実際の松の様子を観察できなければ、なかなか「武隈の松」を詠みこなせない、そんな歌枕である。



いろんな文学書が「武隈の松」の変遷の歴史を考察している。
それらによると、現在は8代目の松になるらしい。



【武隈の松の歴史】

@ 初代の松は貞観大津波で流された。

A 陸奥守の藤原元良が2代目を植えた。後年再び赴任したとき、育ったその松を見て感慨深げに歌を詠んだ。

植ゑしとき契りやしけむ、武隈の松をふたたびあひ見つるかな 藤原元良


武隈の松の史蹟に歌碑
(この藤原元良と下の橘季通の二首が併刻)



B 清和源氏の源満仲は奥州を転戦した際に3代目を植えた。
順序は前後するが、陸奥国に赴任してきた都人が武隈の松を見て、さまざまな歌を残している。



陸奥守として下った時

たけくまの松を見つつやなぐさめん君がちとせの影にならひて 藤原為頼(拾遺和歌集)



父の橘則光のお供で陸奥国の行った際に見た

武隈の松はふた木を都人いかがと問はばみきとこたへむ 橘季通(後拾遺和歌集)



C 4代目は清少納言の元夫の橘道貞が植えたが、その後阿武隈川の橋柱として伐採された。その状況をいろんな歌人が詠んでいる。



能因は2度目の訪問の時に、伐採された跡を見て詠んだ

武隈の松はこのたびあともなし千歳をへてやわれは来つらん 能因



藤原実方のお供で陸奥国に下ってきて、

武隈の松もひともと枯れにけり風に傾く声のさびしさ 源重之



西行は能因に憧れ、その足跡を訪ね歩いた

枯れにける松なき宿のたけくまはみきと云ひてもかひなからまし 西行




D 江戸時代は庶民までが観光旅行に出掛けるようになり、各地で名所旧跡が観光地として整備された。こんな中で5代目が植えられた。

そこにやってきたのが松尾芭蕉。
能因と西行に憧れてやってきた芭蕉は「奥の細道」で次のように感動を伝えている。
武隈の松にこそ、目さむる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿失わずと知らる。先ず能因法師思ひ出づ。往昔(そのかみ)、陸奥守にて下りし人、此木を伐て名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠みたり。代々、あるは伐り、あるは植え継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍りし。
武隈の松みせ申せ遅桜」と、挙白と云ふものゝ餞別したりければ、
桜より松は二木を三月超し
(奥の細道 武隈の松)


      武隈の松の史蹟に句碑


いやはや「代々、伐採したり植え継ぎしたりなどをした結果、『千歳』の形が整った」と笑わせている。



E 6代目は仙台藩主伊達重村が植え継ぎ、

F 現在の「武隈の松」は7代目






これが7代目「武隈の松」

いや〜すごい!



西行が能因の足跡を追い、芭蕉が二人の旧跡を訪ねたその場所に、ついにやってきた!



二木の松の石碑

(武隈の松は別名「二木の松」という。松が二本セットになっているので)






現在では史跡としてきちんと整備されている。また史跡内に8代目が植えられていて、たとえ7代目が倒れても、すぐさまバックアップできる体制が整えられているようだ。(8代目の写真を撮るのを忘れた)










立派な松の姿は絵になります。




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