すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


田辺城跡(京都府舞鶴市)





関ヶ原の戦いの前哨戦と言われる「田辺城の戦い」は慶長5(1600年)年7月19日に勃発した。

東軍の細川忠興は丹後兵を大方を率いて出兵したので、居城の田辺城には、忠興の父の細川幽斎とわずか500の兵力が残されていた。<br>

西軍は15000の圧倒的な兵力をもって田辺城を包囲した。兵力の差は歴然としており、田辺城は落城寸前になった。

細川幽斎は、当代随一の歌道の師で、二条派正統の古今伝授の伝承者であった。弟子の一人である八条宮智仁親王は使者を遣わして開城を勧めたが、幽斎はこれを固辞。『古今伝授の秘伝書』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。そして次の歌を託した。


慶長五年七月廿七日、丹後国籠城せし時、
古今集証明の状式部卿智仁親王へたてまつるとて
いにしへも今もかはらぬ世の中にこころの種を残す言の葉 細川幽斎


田辺城跡心種園に歌碑



ついに細川幽斎の歌道の弟子である後陽成天皇は、幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れて勅旨を派遣、東西両軍に講和を命じた。勅命なので、幽斎も講和に応じ、田辺城を明け渡した。



また田辺城籠城に際し、細川幽斎は古今伝授の歌論書の箱を、一時烏丸光広に預けた。
戦いが終り箱を返すときの光広の歌

あけて見ぬかひもありけり玉手箱 ふたたびかへる浦島の波 烏丸光広

それに対し細川幽斎の歌  

浦島や光をそへて玉手箱 あけてだに見ずかへす波かな 細川幽斎


秘伝書の箱を、浦島伝説の玉手箱に模している。













細川幽斎が籠城した田辺城に訪問
ながらく田辺城跡は公園として使用されてきたが、1992年に一部が復興された


大手門




城内から見た大手門




舞鶴公園




心種園
細川幽斎の「いにしへの〜」の歌からとった名称




子供用の遊戯施設もお城風




二層櫓
史料館になっている




ゆるキャラ「ゆうさいくん」


田辺城の別名は舞鶴(ぶかく)城であったことから、現在の舞鶴(まいづる)という地名が明治時代に誕生した















2022年夏の丹後の旅では舞鶴に3泊しました






copyright(C)2012 すさまじきもの〜「歌枕」ゆかりの地☆探訪〜 all rights reserved.