すさまじきもの ~歌枕探訪~


壺の碑(宮城県多賀城市)




2016年1月、大人の「みちのく一人旅」を挙行、関西空港からLCCのピーチに乗った。


早朝の関西空港
初めてのLCCであったが、とても快適な旅であった。




関空はピーチのハブ空港になっているらしい。











今回は多賀城市にある「壺の碑」の史蹟を尋ねた。

古来「壺の碑」については、真贋論争が喧しいが、それはそれとして置いとこう。
とにかく芭蕉が「壺の碑」に対面した時の感涙に咽んだような多幸感を追体験したく、予断なく、素直な気持ちをもって当地を訪れた。


【奥の細道の「壺の碑」の場面】
 昔よりよみ置ける歌枕、多く語り伝ふといへども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代はれば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑ひなき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労を忘れて、泪も落つるばかりなり。

現代語訳は、
「昔からよみ残された歌枕は世に多く伝えられているとはいえ、山は崩れ、川は流れが変わって、道も改まり、石は埋まって土中に隠れ、木は老い朽ちて若木に植えかえられたりしているので、時が移り世が変わって、今ではその遺跡のはっきりしないものばかりであるのに、この碑に至っては、まさしく疑いもない千古のかたみというべく、今まのあたりに古人の心を検め偲ぶ思いがする。
これぞ行脚の一徳、生きながらえたればこその喜びと、旅の辛苦も忘れて、感動に涙もこぼれるばかりであった。
(新訂 おくのほそ道/角川文庫)




いや~、感極まる!というところ。
奥の細道のこのくだりは、芭蕉の興奮を余すとこなく伝えている。





そんな「壺の碑」はこんな感じ


この東屋に保管されている。




道路沿いに史蹟として整備されている。




これが「壺の碑」



碑の内容は、

西

多賀城
 去京一千五百里
 去蝦夷國界一百廿里
 去常陸國界四百十二里
 去下野國界二百七十四里
 去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日


京を去ること一千五百里、蝦夷国の界を去ること一百廿里、常陸国の界を去ること四百十二里、下野国の界を去ること二百七十四里、靺鞨(まっかつ)国の界を去ること三千里 ・・・ と説明されている。


ん~、個人的にはどうでもいい内容であるが。











こんな「壺の碑」は遥かに遠い場所の喩えとして詠まれていた。


みちのくの 奥ゆかしくぞ おもほゆる つぼのいしぶみ そとの浜 西行(山家集)


壺の碑の東屋の傍に歌碑











この「壺の碑」は特別史跡多賀城跡として整備された一角にある。
多賀城は陸奥国の国府であったところで、発掘により多賀城の全容の解明が進んでいる。


壺の碑から多賀城政庁蹟を眺める。




多賀城政庁蹟。





多賀城市には多賀城蹟に因んだゆるキャラがある。


DOCKY(ドッキー)
土器に因んでいる




KAWARACHAN(かわらちゃん)
多賀城蹟から出土する瓦に因んでいる




TAGAMON(たがもん)







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その他「壺の碑」を詠んだ歌

石ぶみやつかろの遠(おち)に有りと聞えぞ世中を思ひはなれぬ 藤原清輔
思ふこといなみちのくえぞいはぬ壺の石文かきつくさねば 慈円
思ひこそ千鳥の奧を隔てねどえぞ通はさぬ壺の石文 顕昭
陸奥磐手忍はえそ知ぬ書尽してよ壷のいしぶみ 源頼朝



 


いやはや感動の訪問であった















夜は仙台のビジネスホテルで一人宴会でした




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