すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


月影谷(つきかげがやつ)(神奈川県鎌倉市)







しき島や やまとの国は あめつちの ひらけ初めし
むかしより 岩戸をあけて おもしろき かぐらのことば
うたひてし さればかしこき ためしとて ひじりの御世の
みちしるく 人のこゝろを たねとして よろづのわざを
ことのはに おにがみまでも あはれとて 八島の外の
よつのうみ 波もしづかに をさまりて 空ふく風も
やはらかに 枝もならさず ふるあめも 時さだまれば
きみぎみの みことのまゝに したがひて わかの浦路の
もしほぐさ かきあつめたる あとおほく それが中にも
名をとめて 三代までつぎし 人の子の 親のとりわき
ゆづりてし そのまことさへ ありながら おもへばいやし
しなのなる そのはゝき木そのはらに たねをまきたる
とがとてや 世にもつかへよ いける世の 身をたすけよと
ちぎりおく 須磨明石の つゞきなる 細川山
山がはの わづかにいのち かけひとて つたひし水の
みなかみも せきとめられて いまはたゞ くがにあがれる
いをのごと かぢをたえたる ふねのごと よるかたもなく
わびはつる 子を思ふとて よるのつる なくなくみやこ
いでしかど 身はかずならず かまくらの 世のまつりごと
しげければ きこえあげてし ことのはも 枝にこもりて
梅のはな 四とせの春に なりにけり 行くへもしらぬ
なかぞらの 風にまかする ふるさとは 軒端もあれて
さゝがにの いかさまにかは なりぬらん 世々の跡ある
玉づさも さて朽ちはてば あしはらの 道もすたれて
いかならん これをおもへば わたくしの なげきのみかは
世のためも つらきためしと なりぬべし 行くさきかけて
さまさまに かきのこされし 筆のあと かへすがへすも
いつはりと おもはましかば ことわりを たゞすの森
ゆふしでに やよやいさゝか かけてとへ みだりがはしき
すゑの世に あさはあとなく なりぬとか いさめおきしを
わすれずば ゆがめることを またたれか ひき直すべき
とばかりに 身をかへりみず たのむぞよ そのよを聞けば
さてもさは のこるよもぎと かこちてし 人のなさけも
かゝりけり おなじ播磨の さかひとて 一つながれを
くみしかば 野中の清水 よどむとも もとのこゝろに
まかせつゝ とゞこほりなき みづくきの あとさへあらば
いとゞしく 鶴が岡べの 朝日かげ 八千代のひかり
さしそへて あきらけき世の なほもさかえむ
阿仏尼
(十六夜日記)

反歌
ながかれと朝夕いのる君が代をやまとこと葉にけふそのべつる 阿仏尼(十六夜日記)
つるは鶴岡のこと


「十六夜日記」は鎌倉時代、藤原為家の側室、阿仏尼が所領の相続をめぐる訴訟のため鎌倉へ下ったときの紀行文。
最終クライマックスの長歌は圧巻。
長歌は、訴訟の正当性、判決が長引くことの焦燥を綴り、そして勝訴を祈願したもので、鶴岡八幡宮へ奉納された。


若い頃、はじめて十六夜日記を読んだとき、この長歌は退屈で大味で冗長だと感じたが、今読み返してみると、それなりに興趣深い内容に思え、歳とともにものの感じ方は変わるものだと思った。


鎌倉に着いた阿仏尼は極楽寺に近い月影谷に滞在した。
『あづまにて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いとあらし。山寺のかたはらなれば、のどかに、すごくて、波の音、松風たえず』(十六夜日記)
山寺は極楽寺のこと


鎌倉では四年以上滞在し、その間は御家人たちに歌の指導をしていたようだ。


最終、訴訟に勝つが、判決が出る前に阿仏尼は亡くなった。









阿仏尼が鎌倉滞在中に詠んだ歌


聞き残し見残すこともあらじかしむそぢの夢のあかつきの 阿仏尼

ふるさとの人に見せばや黒髪に年も重なる霜のしろさを 阿仏尼

いつの日か都の空をそれとみて渡り帰らん瀬田の長橋 阿仏尼











■ 現地訪問





江ノ電の踏切を越えたところから月影谷が始まる



踏切を渡ったところに「阿仏邸旧蹟」の石碑
(鎌倉市極楽寺3丁目12)


写真ではよく分らないが、石碑の右側に句碑があった。
月影の谷若葉して道清志 戸川稲村





月影谷の奥を写す



江ノ電が通過するのを待っていたが、来なかった。













感動の訪問でした





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