すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


津久毛(つくも)(宮城県栗原市)





陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸 梶原平次景高



勢いは味方に、つく → つくもばし → 津久毛橋
現在ならヤッテモーターって感じの親父ギャクであるが、奥州攻めで進軍している時の陣中歌なので、まじめに詠んだのだろう。







現地の案内板より

津久毛橋城跡
 俳聖芭蕉と奥の細道を旅した弟子の曽良日記に、
十四日(元禄二年五月、一六八九)天気吉。一関ヲ立。岩ケ崎。真坂。岩ケ崎ヨリ金成ヘ行ク中程ニつくも橋有リ。岩ケ崎ヨリ壱リ半程。金成ヨリ八半道程。岩ケ崎ヨリ行ケバ道ヨリ右ノ方也。
と記しているが、芭蕉や曽良の心に映じていた「つくも橋」とはどんなところであったろう。
 吾妻鏡に、文治五年(一一八九)八月二十一日、二品(源頼朝)松山道ヲ経津久毛橋ニ至リ給フ。梶原平二景高一首和歌ヲ詠ムノ由之ヲ申ス。
陸奥ノ勢ハ御方ニ津久毛橋 渡シテ懸ン泰衡ガ頸
 源頼朝は海、陸、山の三道から二十万の大軍をもって平泉の藤原泰衡を攻め進んだという。そのころ三迫川沿岸一帯は江浦藻(つくも)が生い茂る低湿地帯であった。この藻を刈り敷きつめて全軍を渡したという時の歌である。
(中略)
 また鬼柳文書によると、南北朝の興国二年(一三四一)九月北畠顕信が南朝回天の最後の拠点を津久毛橋城に築き、足利方の将、石塔義房は釜糠城に陣を張り大合戦を展じている。
 以上の二つの文献からつくも橋附近は奥州の国道であり血戦の地でもあった。
(後略)
金成町教育委員会





え〜と、案内板の説明の通りであるが、この付近に幕府の大軍が通るような街道があったということにびっくり。








■ 現地へ訪問してきた。


手前のガードレールが津久毛橋。
背後のこんもりとした丘が津久毛橋城跡。



こんなかんじ。今となっては何の風情も感じない。



けれど、ある意味、感動した。



上流方面。西。栗駒山の方。



下流方面。



津久毛橋城跡。



まあ、梶原景高がここで和歌を詠まなかったら、私もこの地にやってくることはなかっただろう。
惜しむらくは、芭蕉と曽良もこの付近まで来ていたのなら、なにか津久毛橋の関連で発句してほしかった。








38.821828, 141.036278 (経緯度)







果たして年間何人の観光客が訪れるのだろうか








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