すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


和射見(岐阜県関ケ原町)




「和射見」と書いて「わざみ」とよむ。

関ケ原周辺の古い地名だそうだ。

万葉集の柿本人麻呂の歌には、壬申の乱の中で、高市皇子が和射見の行宮に赴かれたという内容が詠まれている。

そのためか、関ケ原の野上にある「野上行宮跡」は和射見の伝承地とされている。(歌枕マニアの中で)

関ケ原一帯の古称である和射見であるが、どうしても特定の場所に結び付けたいという“思い”により、こうなったのだろう。

私の手元の資料には、和射見の項目で、
「野上行宮跡」
「国道21号線を南に折れて新幹線を超える」
「まっすぐに進み墓地を通り過ぎたところ」
等の走り書きがある。
だれかの訪問記を読んで、備忘のために記録したのだろう。


さて、和射見を詠んだ万葉歌は三つあるそうだ。


和射見の嶺行き過ぎて降る雪のいとひもなしと申せその子に 万葉集


我妹子が笠のかりての和射見野に我れは入りぬと妹に告げこそ 万葉集



この二首は、恋人が遠くから恋の歌を送っている内容で、遠い場所の意味で和射見が使用されているようだ。
次の歌はかなりしんどい。


かけまくも ゆゆしきかも うはまくも あやにかしこき あすかの 眞~の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定め給ひて ~さぶと 磐がくります やすみしし 吾が大君の 聞こしめす 背面の國の ま木立つ 不破山越えて 高麗劒 和射見が原の 行宮に あもりいまして 天の下 治め給ひ をす國を 定め給ふと 鶏が鳴く あづまの國の 御軍士を 召し給ひて ちはやぶる 人を和せと まつろはぬ 國を治めと 皇子ながら 任し給へば 大御身に 大刀取り佩はし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を あどもひ給ひ 齊ふる 鼓の音は 雷の 音と聞くまで 吹き響せる 小角の音も 仇見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 幡の靡きは 冬木もり 春さり來れば 野毎に つきてある火の 風のむた 靡くが如く 取持てる 弓はずのさわぎ み雪ふる 冬の林に 飄かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きのかしこく 引き放つ 箭の繁けく 大雪の 亂れて來れ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく ゆく鳥の あらそふはしに 度會の 齋の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ給ひて 定めてし 瑞穂の國を ~ながら 太敷きまして やすみしし 吾が大君の 天の下 まをし給へば 萬代に 然しもあらむと 木綿花の 榮ゆる時に 吾が大君 皇子の御門を ~宮に 装ひ奉りて 使はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの いはひ伏しつつ ぬば玉の ゆふべになれば 大殿を ふりさけ見つつ 鶉なす いはひもとほり 侍候へど さもらひ得ねば 歎も いまだ過ぎぬれば 憶も いまだ盡きねば 言さへく 百濟の原ゆ ~葬り 葬りいませて 朝裳よし きのへの宮を 常宮と 高くしまつりて ~ながら そいずまりましぬ 然れども 吾が大君の 萬代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 萬代に 過ぎむと思へや 天の如 ふりさけ見つつ 玉だすき かけて偲はむ かしこかれども 柿本人麻呂
(万葉集

高市皇子が亡くなったときの葬送歌で、高市皇子の生前の活躍ぶりを詠み上げている。その中で和射見が登場している。




そんな和射見の行宮跡である史跡「野上行宮跡」に行ってきた。



【野上行宮跡】

国道21号線から南に入り、新幹線をくぐって、墓地を超えたところ。
ここまで車で入れた。



墓地を超えて大回りしてきて今度は墓地の裏手に来た。
このあたりが行宮跡のようだ。



真冬に行ったがこんな様子。
春とか夏とかに行ったら大変だったろう。

ただ、人の踏み入れた跡はそれなりにあった。たぶん壬申の乱マニアによるものだろう。












普通の雑草地でした







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