すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


水無瀬(大阪府島本町)




「水無瀬」(みなせ)ってなにやら由緒ありげな感じがして、昔から気になって注目してきた。


もともと「水無瀬」とは、川の水が伏流して流れ、地表は涸れたようになっている様子を指す一般名詞。
万葉歌をはじめ初期の頃は「水無瀬」を特定の地名として採り上げなかった。

ところが平安京に遷都し、@大宮人と摂津にある「水無瀬川」との距離感が一気に縮まり、A能因が著書『能因歌枕』で山城国?の歌枕として「水無瀬」を紹介、Bさらに後鳥羽院の水無瀬離宮が契機となって歌枕として定着。
また水無瀬離宮といえば、『伊勢物語』、渚の院でのドンチャン騒ぎの果てに惟喬親王の水無瀬の離宮にやってきて朝まで飲み直したストーリーなども「水無瀬」の浮世離れした理想郷のようなイメージを形成した。




そんな堅い話は抜きにして、水無瀬川に行ってきたので、とりあえず写真を紹介

水無瀬川。新幹線が見える。
新幹線の橋を越えたところで淀川に注ぎこむ。



前日までに雨が降ったのか、川の流れは涸れていなかった。



堤防を川に下りてみた。
一般的な川であった。



水無瀬川が淀川に注ぐところ。
川の向こう岸に見えるのはどこだろう?




水無瀬をモチーフにした和歌を紹介


うらぶれて 物は思はじ 水無瀬川 ありても水は 行くといふものを 万葉集
言急かは 中ゆ淀まし 水無瀬川 絶えてそ事を ありこすなゆめ 柿本人麿(万葉集)
恋にもぞ人は死する水無瀬川下ゆわれやす月に日に異に 万葉集
あひ見ねばこひこそまされみなせ河 なににふかめておもひそめけむ 読人不知(古今集)
みなせ川ありてゆく水なくはこそつひにわが身を絶えぬと思はめ 読人不知(古今集)
ことに出でて言はぬばかりそ水無瀬川 下に通ひて恋しきものを 紀友則(古今集)
思ひあまり人にとはばや水無瀬川 むすばぬ水に袖は濡るやと   藤原公実(堀川百首)
水無頼川をちの通路みつ満ちて 舟わたりする五月雨のころ 西行(山家集)
人心何を頼みて水無瀬川せぜのふるぐひ朽ち果てぬらむ 藤原基俊(千載和歌集)
水無瀬山夕かげ草の下露や秋なく鹿の涙なるらん 源通光(続千載和歌集)


伏流水の水無瀬に託けて、表面に現れないようなモノ、ココロを詠んだものが多い。









次に向かったのは水無瀬神宮。昔の水無瀬離宮の跡という。

たしかに立派な様子であった。



と、見るとたくさんの人が入れ替わり立ち替わり水を汲んでいる。



「離宮の水」。名水百選に選ばれているそう。
水汲みの人の列は途絶えることはなかった。





後鳥羽院関係の歌


見渡せば山もとかすむ水無瀬川 夕べは秋となに思ひけむ 後鳥羽院(新古今和歌集)
みなせ山木の葉あらはになるままに尾上の鐘の声ぞちかづく 後鳥羽院
夜もすがら秋の有明をみなせ川むすばぬ袖にやどる月かな 後鳥羽院
みなせ山むかしの花の色ながらわが身ぞ今は春のよそなる 後鳥羽院二条(夫木和歌抄)


このころになると「水無瀬山」も登場。
水無瀬離宮の西北にある山らしい。









水無瀬神宮の中にこんなものがあった。

「都忘れの菊」。拝殿の前にあった。


由緒は斯くの通り




小さな菊が植えられていた。

いかにして契りおきけん白菊を都忘れと名づくるもうし 順徳天皇




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伊勢物語「渚の院」では、

むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに水無瀬といふ所に、宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。・・・

から始まり、毎年恒例の花見の宴がスタートしたが、いろんな場所で昼からさんざん飲んで、夜更けに水無瀬の宮に戻ってきた一同。しかしながら宮の主人である惟喬親王がもう寝たいと言い出し、
これに対し在原業平が

飽かなくにまだきも月の隠るるか 山の端逃げて入れずもあらなむ 在原業平(伊勢物語)
沈むには早い時間に月が山の端に沈んでしまう。
山の端よ逃げて月を入れないでほしい。
まったく親王がこんなに早く寝るなんて残念です。
 


これに対し、惟喬親王の代わりに紀有常が

おしなべて峯もたひらになりななむ 山の端なくは月もいらじを 紀有常(伊勢物語)
山の形が平かになったら月も沈む場所がないよ。
もう寝るので、今夜は諦めてください。 













えっと、水無瀬は摂津で、山崎は山城。
ややこしいね。






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