すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


山中の里(京都府宮津市))






山中にいねられさするや夜もすがら 松吹く風におどろかされて 和泉式部



恋多き女流歌人の和泉式部も晩年はさびしい生活を送ったようだ。

何人目かの夫の藤原保昌が丹後守に任ぜられ一緒に丹後に下向した。
ところが任国が終わり藤原保昌は都に戻ったが、和泉式部は一人残って丹後の「山中の里」に庵を結び老を慰めたという伝承が地元に残っている。

和泉式部関連の伝承は全国各地津々浦々にあり、それぞれ産湯の井戸や顔を洗った井戸、庵、墓所が伝わっている。一般的には和泉式部の晩年は京都の誓願寺で隠棲したことになっているのだが、ここ丹後は夫の任国地であるので、まんざら脈絡のないものではない。

とはいえ、「山中の里」という名称はなんともイマイチである。
山の中なので「山中」なのかどうなのかよく分からないが、ちょっとシンプル過ぎると思う。もう少し捻った地名の方が重みが出るのだが。

現在も地名は「山中」のまま。これはこれで地元に浸透した地名なのであろう。





そんな和泉式部ゆかりの「山中の里」を訪ねてみた



経緯度 [ 35.529806, 135.227758 ]に和泉式部の墓の案
内板


案内板の矢印が示す方向
向こうの坂道を上った中腹あたりに和泉式部の墓がある



これが和泉式部の墓



墓から東方面


墓から北方面


墓から西方面



「山中」というよりも、山に囲まれた小さな平地であった。
ここなら和泉式部も晩年にゆっくり過ごすことができただろう。



当地での和泉式部の詠歌


夕くれは物思ふことの増日かと 我ならさらん人に問はゝや 和泉式部


春や来る花や咲くとも知らさりき 谷の底なる埋れ木の身は 和泉式部


















和泉式部関連では、宮津の智恩院境内に歌塚がある




内容については案内板を転記しよう
 宮津市指定有形丈化財(建造物)
石造宝篋印塔(鎌倉時代)   
宮津市字文珠 智恩寺

 この石塔はいつのころからか和泉式部の歌塚と伝えられている。『丹哥府志』によれば、丹後守藤原公基が日置金剛心院において、和泉式部が書捨てた和歌を持ち帰り、なみだの磯(涙が磯)に埋めて鶏塚と呼んだという。その反古の一首が、
いつしかと待ちける人に一声も 聞せる鶏のうき別れかな 
 その後明応(一四九〇〜一五〇一)のころ、砂に埋まった塚を掘り出して文珠堂の傍らに建てたのが今の 歌塚であるという。
 彼女が丹後に下って詠んだ歌のいくつかは知られているが、前記の歌が丹後において詠まれたものかは分からない。丹後において各処の和泉式部伝説のあるなかで、これもそのひとつとしてうけとればよい。
 塔は堂々として基礎の格狭間や、塔身の薬研彫の四方仏の種子、笠石四隅の突起等に時代的な特徴がみられる。 

 宮津市教育委員会
















いつか全国の和泉式部ゆかりの地をまとめてみたい







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